日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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新型コロナウイルス感染拡大で苦しんだ過去を忘れるかのような街のにぎわいだ。シンガー・ソングライターのRio&香西かおりのプライベートライブに足を運んだが、エンターテインメントも熱気を取り戻しつつある。

プロ野球にとっても、今年のゴールデンウイークはここ数年なかった稼ぎどきだ。阪神で営業、広報を務めたOB本間勝は「そろそろ阪神も頂点に立ってほしいね。岡田監督は勝負運をもっているから期待ができます」と前向きだった。

5月1日が84回目のバースデーだった本間は、投手として阪神、西鉄で通算216試合に登板した。この人物の名が知られているのは、王貞治(巨人)に4打席連続本塁打の4本目を打たれ、大記録達成を許した張本人だったからだ。

ユニホームを脱いだ後は新聞記者に転身した異色の経歴をもつ。ヘッドハンティングで阪神のフロント入り。日本一になった1985年(昭60)には、広報担当でメディア対応に奔走したから岡田彰布らV戦士への思い入れは強い。

現役時代の岡田が写真誌に激写された際、球団側の窓口だった本間は「岡田は他の人たちと一緒に出掛けていたのに『自分1人だった』と責任をかぶった。後で分かったことだが、当時からリーダーになるかもという予感はあった」という。

本間が感心したのは、岡田の二塁手としての素養だ。当時は三塁、遊撃から返球を受けて一塁に転送する併殺プレーになると、一塁走者から故意にスパイクで激しい蹴り上げに遭った。

本間は「セカンドの岡田は逃げなかった」と説明した。名手で、監督だった吉田義男も認める愛弟子の“頑丈さ”だが、本間は「岡田の“したたかさ”を感じたのは守備練習だ」と続ける。

「岡田はよく下から一塁に送球していました。これが本番だと滑り込んでくる一塁ランナーの顔面を直撃しますよね。しかも岡田はわざと相手チームが練習にグラウンドに出てくるのを見計らって、このゲッツーの練習を見せた。わたしはそう思っていました」

つまり、まともに二塁カバーに入った自分をめがけてくるとタダでは済まないことを知らしめる“危険信号”のポーズだったというのだ。岡田が監督になっても二遊間の固定にこだわることが理解できた。

「もともとベンチでワイワイするタイプじゃないから、静かに采配する監督ですよね。前回優勝したときのJFKのような、きちっと何かを求めながらチーム作りをしているような気がしますね」

本間が王に一撃を食らったのは自らの誕生日の翌々日だ。1964年5月3日、後楽園球場。ゴールデンウイークのまっただ中で4万観衆で膨れ上がっていた。当時の名物広報は「大型連休は要注意です」と苦笑するのだった。(敬称略)