吉田から、岡田へ日本一継承--。85年阪神日本一監督・吉田義男氏(90=日刊スポーツ客員評論家)が、38年ぶりの日本一を祝福し、特別寄稿を寄せた。岡田監督と師弟関係にある吉田氏は「阪神から初めて名将が誕生する予感がした」と絶賛した。【聞き手=寺尾博和編集委員】

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監督の岡田が胴上げされている姿に熱い感情がこみ上げました。わたしが監督だった1985年以来の日本一ですから隔世の感があります。すぐに岡田に電話を入れました。

この間、野村、星野ら11人の歴代監督が、日本一に挑戦したがかなわなかった。当時の中心選手だった岡田が、古巣に復帰し、頂点に立ったのだから運命を感じます。

今まで口にしたことはありませんが、彼には特別な思い入れがあるんです。わたしから言わせれば、少々わがままなところもあったし、ある時はたしなめたこともありました。

さまざまな業界、団体と関係を築き、野球人だけでなく、人間として幅ができた。今までと違って、人に言われたこともいったんはこらえ、冷静に努めるようになりましたね。

野球エリートですが、辛酸をなめています。個人的に幾度となく岡田を現場に返してほしいと、本社に懇願しても突き返されたこともあった。これがラストチャンスだったのです。

この15年間が充電期間だったとするなら、年輪も重ねましたが、度量が大きくなって、それがまた監督に求められる“器”につながったと思っています。

そう言えば、38年前の大コンバートで外野から内野に転向した岡田は、選手生命を懸ける気持ちで向き合ったんです。わたしも負ければマスコミからたたかれたかもしれません。

監督がぶれたら、選手は流される。岡田、掛布、平田らは一心不乱に泥にまみれた。わたしも彼らに懸けた。岡田の体にはディフェンスに固執する野球がしみついているのです。

選手の不安を打ち消し、自信に変えるのも監督の手腕といえるかもしれません。湯浅の劇的な継投に表れたように、独特の感性をもった勝負勘は、岡田ならではでした。

わたしも「清水の舞台から飛び降りる」といった気持ちで抑えに中西をつぎ込んだ。その裏にあったのは、失敗を恐れず、選手を信頼して起用する覚悟だったように思います。

岡田が日本一を引き継いでくれた。わたしは阪神タイガースの歴史に、初めて名監督が誕生する予感がします。38年は少し長すぎた。これが黄金時代の幕開けだと信じています。