日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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日本一を成し遂げた岡田彰布に、真っ先に祝福の電話を入れたのは、吉田義男だった。「リーグ優勝、CSファイナルに勝ったときも、一番にかけました」。自身が監督だったとき以来の日本一がよほどうれしかったようだ。

自宅リビングの革張りのソファに座った吉田は、その瞬間をベンチで待つ岡田が目を潤ませているのを察したのだろう。「泣けますな…」。阪神が勝利を決めた後、胴上げが始まると、おもむろに携帯電話に手を伸ばした。

その日の主役はテレビの向こうで宙に舞っているのに電話に「もしもし、吉田です。おめでとう、おめでとう」と1人で語り始めた。電話を切ると「今日はシャンパンも冷えてますよ」とつぶやく。だれも飲まないのに…。

85年の日本一監督は、フランスでナショナルチームを率いて五輪出場を目指した。地元紙は「プチサムライ」「ムッシュ」と書き立てた。「向こうではサーベルでシャンパンの瓶口を飛ばすんですわ」。でも高級シャンパンは冷蔵庫に眠ったままだ。

どう考えても戦力不足とわかっていても、毎年この人だけは開幕前の順位予想は「1位阪神」だった。「わたしの体にはタテジマの血が流れている」。だから正夢になった夜のムッシュ吉田は、とにかくハイテンションだった。

日本列島で虎フィーバーが起き、社会現象にまでなった。まるで“天下人”のように奉られた男は、翌86年が3位、2年後の87年は最下位まで落ち込んで、その座を追われる。「天国と地獄を見た」。筋書きのない悲劇のドラマだ。

「日本一になって、なにか次の手を打たなあかんと思っていながら、あれよあれよと過ぎた。言い訳ではないが、翌年は急に審判に徹底して低めの球をストライクにとられた。打ち勝ってきたチームはてこずりました」

日本一になった吉田阪神のオフの補強は、日本ハムから柏原純一を金銭トレードで獲得した1件にとどまった。ドラフトも将来戦力が中心だった。

「わたしは中日の谷沢(健一)が欲しかった。だが油断ではないが、優勝に貢献してくれた選手を使わんとあかんという思い込みもあって、なかなか踏み切れなかった。思うように若手が伸びてこなかったというのもありました」

38年ぶりの日本一になった阪神は、若手中心だからチームが置かれた状況は違う。監督の岡田は「新しいチームを作る」とさらに戦力層を厚くさせる腹づもりでいる。

初代日本一監督の吉田は歓喜にあふれた現有戦力に“情”をかけて後手に回ったことを、今でも後悔している。「非情になれなかった」。そして「このオフを大事にしないとあきませんよ」とわれに返るのだった。(敬称略)