クリント・イーストウッド監督の40本目の監督作となる最新作「リチャード・ジュエル」が、17日に日本公開されました。本作のタイトル、リチャード・ジュエルとは、1996年のアトランタ・オリンピック(五輪)期間中に起きた爆破テロ事件で多くの人の命を救いながらも地元紙のスクープ記事をきっかけに容疑者に仕立てられた警備員リチャード・ジュエル氏のこと。爆弾の第1発見者としてテロを未然に防いだ英雄として一躍時の人となったジュエル氏でしたが、わずか数日後に爆弾犯の汚名を着せられて米連邦捜査局(FBI)とメディアから執ような追及を受けることとなった実話を基にした作品です。近年は「ハドソン川の奇跡」(16年)や「15時17分、パリ行き」(17年)など実在の出来事で英雄として歴史に名を刻んだ普通の人たちを描いてきたイーストウッド監督らしく、今作の主人公もどこにでもいる母親と2人暮らしの警察官に憧れる普通の男性。そんなジュエル氏がなぜ英雄から一転して容疑者になったのか、冤罪(えんざい)がどのように生まれてしまったのかを丁重に描いています。

当時アトランタ支局で働いていた筆者も支局のすぐ近くで起きたこの事件のことは今も記憶に残っており、CNNなどメジャーテレビ局や新聞が一斉にジュエル氏犯人説を伝える過熱報道が起きたことを鮮明に覚えています。事件は五輪7日目の1996年7月27日にアトランタ市内にあるセンテニアル・オリンピック公園の野外コンサート会場で起きました。ベンチの下に置かれたパイプ爆弾によって2人が死亡し、111人が負傷する大惨事となりました。この時、会場で警備員として働いていたジュエル氏が最初に不審なバックパックを発見し、即座に周囲にいた人たちを避難させるなどして多くの命を救ったとしてテレビ番組に出演するなど国民的ヒーローとなりました。しかし、五輪そのものへの影響を懸念したFBIが事件解決を急ぐあまり、プロファイリング情報を頼りに決定的な証拠がないままジュエル氏を容疑者とし、この情報を入手した地元メディアが1面でこれを報じたのです。そこからジュエル氏の人生は一転し、FBIとメディアから執ように追われる日々が始まり、追い詰められていきます。最終的に同年10月にジュエル氏の容疑は晴れましたが、07年に44歳の若さで亡くなっています。今回の映画化に際して、「できるだけ正確な情報を得たかった」と語るイーストウッド監督に母ボビーさんと唯一の味方だったワトソン弁護士が全面協力したといいます。

劇中では大勢のメディアがジュエル氏と母親が住む自宅前に張り込んで一挙一動に注目し、まるで容疑者であるかのような報道が連日続いたことが描かれていますが、これは今のようにSNSがない時代の出来事。もし、これが現代だったらどうなっていたのか…そう考えるととても恐ろしくなります。イーストウッド監督はインタビューで、「今の時代でも起こりうること。誰もが簡単に情報を発信できるSNS時代はクレージーだ」と語り、デマや臆測が簡単に拡散し、フェイクニュースにあふれる現代に警鐘を鳴らしています。一度拡散されたニュースは真犯人が捕まった後も消すことはできません。「ひどい悲劇」というイーストウッドが語るこの事件においても、ジュエル氏の無実を伝えるメディアは容疑者として報じたメディアの数よりもずっと少なかったといいます。

ジュエル氏を演じたのは、「アイ、トーニャ史上最大のスキャンダル」(17年)で一躍注目を集めたポール・ウォルター・ハウザー。イーストウッド監督から熱烈オファーを受けたといわれるだけあり、写真を見比べると驚くほど本人そっくりでまさにはまり役です。そして、メディアとFBIを相手に無実を信じて闘ったワトソン弁護士を演じたのは「スリー・ビルボード」(17年)でアカデミー賞助演男優賞に輝いたサム・ロックウェル。さらにボビー役のキャッシー・ベイツは先日発表されたアカデミー賞で助演女優賞にノミネートされましたが、素晴らしいキャストの演技も作品の見どころの一つとなっています。

5月に90歳を迎えるイーストウッド監督は、ほぼ年1本のペースで映画を作り続けています。かつてのインタビューで若さの秘けつは「すしと緑茶」と語っていましたが、「何歳まで生きるかなんて気にしていないし、変わらず人生を楽しんでいるだけ」と90歳を迎える心境を語り、自身のレガシーについてもあまり深くは考えてはいないようです。そんなイーストウッド監督は、24年前のこの出来事を通じて私たちに伝えたかったこと、それはスマホ画面の中にあるものではなく、実際に目の前の風景やそこで起きていることを自分の目で見て感じ、情報を精査することの必要性であるように思います。

(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「ハリウッド直送便」)