9歳まで育った栃木・宇都宮市文化会館で、今月25日にコンサートを行う。歌手森昌子(61)はこの公演で48年の歌手人生に幕を閉じる。13歳でデビューし、結婚、離婚、再デビューと波乱に富んだ道を歩んできた。本名の森田昌子に戻るまであと10日。約半世紀に及んだ芸能生活を振り返り、新たな旅立ちを迎える心境を語ってもらった。

★デビューの地で

「芸能活動に未練や後悔はまったくないです。歌手なのですが、ドラマや映画、バラエティーやナレーションも全部やらせていただいた。だから、もう何もやりたいことはない。今は目の前にあるコンサートのことしか頭にありません」。そして声のオクターブを1つ上げて「本当に何の未練もないんです」。晴れ晴れとした表情で言い切った。

48年の芸能生活に幕を下ろす最終公演は、25日に宇都宮市文化会館で行われる。昨年10月から1年以上かけ、全国130カ所以上で実施してきた「還暦コンサート」千秋楽。当初は前日の東京・渋谷公会堂公演が最後だった。「『もう1日だけ、ぜひやらせてほしい』と私から事務所にお願いしたんです」。

1972年(昭47)7月に「せんせい」でデビュー。その記念イベントを行ったのが宇都宮市にある二荒山神社だった。境内を埋め尽くす約2000人が「歌手森昌子」の船出を祝福してくれた。「地元が同じという、ただそれだけですよ」。小3まですごした故郷の人たちの温かい応援がお守りとなり、その後の心の支えになった。「最初がそこなので、歌手人生の最後もそこで終わりたいという思いが強かったんです」。

同神社は、森田昌子の出発点でもある。「『昌子』という文字は、じいちゃんが神社からもらってきたお札から取りました。表からでも裏からでも同じに見える『森田昌子』。じいちゃんはそこまで考えてくれたんだと思います」。

表と裏がないのは名前だけでなく、飾らない一本気な人柄とも重なっている。

★「感謝」しかない

歌手人生はスタートから順調だった。71年に日本テレビ系オーディション番組「スター誕生!」初代グランドチャンピオンになり、翌年のデビュー曲「せんせい」は80万枚の大ヒット。73年、当時最年少で紅白歌合戦初出場。桜田淳子、山口百恵さんと「花の中3トリオ」として一世を風靡(ふうび)し、「哀しみ本線日本海」「越冬つばめ」など昭和を代表する名曲を世に送り出した。

86年8月に結婚のために引退。05年に離婚し、翌年「バラ色の未来」で歌手復帰すると、20年のブランクを感じさせない勢いで駆けだした。芸能界に戻った理由は「両親と息子3人を養っていかないといけないから。生活のためでした」と振り返る。だが、多くの昌子ファンは懐かしい歌声を再び聞くことができて素直に喜んだ。

復帰から13年。17の新曲を発売し、多くの公演を重ねてきた。「ファンの人の支えがあったからこそ『森昌子』という歌手がいた。休んでいた間もサークルを作って、毎月集まってくれていたらしいんです。それを知った時に、本当に申し訳ないと思いました。多くのファンの人たちが私と同年代で子育ても一段落。今でも『昌子ちゃんが戻ってきてからの期間はおまけみたいなもの』と言って楽しみながら応援をしてくれます。本当に『感謝』の2文字しかありません」。

昨夏に「芸能界の父」と慕う恩人が78歳で死去。「この年齢まであと20年もないのか…」。こう思ったことが60歳という人生の節目を迎え、1度立ち止まる大きなきっかけになったという。「人生の残された時間を芸能活動以外に使って充実させたい」。当初は昨年末で引退の意向だったが、事務所の説得で約1年の延期を決めた。同時にファンに感謝の思いを伝える全国ツアーの開催も決めた。「小さいころからずっと歌の世界を駆け足で来ました。復帰してからの13年で、日本を4周くらいしました。でも、行った先々の景色をまったく覚えていないんですよ(笑い)。空港や駅から車に乗って、公演会場の楽屋口から入ってステージで歌っただけ。だから、これからは各駅停車に乗って周りの景色を見ながら人生を過ごしたい。そんな思いです。分かってください」。列車に例えて、芸能界という“特急列車の旅”に終止符を打つ心境を説明した。

★桜田淳子からメール

来年以降のことは、引退後にじっくり考えるつもりだ。「とりあえず年末は事務所や自宅の片付け。おせち料理は久しぶりに少し作ろうかなと思っています。お正月には3人の息子たちも私の家に来ると思うので」。

長男はロックバンド、ONE OK ROCKのTaka。三男もロックバンド、MY FIRST STORYのHiroとして活躍する。次男は会社員だ。「あの子たちも気持ちのどこかで『ホッ』としていると思います。私に対してはこれから楽しく自分の人生を送ってほしいという思いと、自分たちの母さんが戻ってくるという思い。そういう2つの感覚だと思います」。

2月には母幸子さん(88)との温泉旅行を計画中だ。体が丈夫でなく、森を身ごもった時に、出産は危険だと医師に言われながら「命に代えても生む」と言い切った幸子さん。3人の孫にも「あなたたちをかわいがるのは、ママの子供だからなのよ」と宣言するほど1人娘を溺愛してきた。「本当に愛すべき“親バカ”ですよね。でも、あの人が母親で本当に良かったと思うんです」。ファン同様に母へも感謝の言葉を重ねた。

「花の中3トリオ」の桜田からは、引退発表の際に「これからいっぱい時間ができるから遊びましょう」とメールが届いた。「一段落したら連絡をしてみようと思います。やっぱり3人でお茶でも飲みたいじゃないですか。でも、よく考えたら『中3トリオ』が今では『還暦トリオ』になっている。ババア3人ですよ…。あはは」。

06年の再デビュー曲タイトルは「バラ色の未来」。今、昌子さんの未来は何色ですか? 答えは「そりゃもちろん、バラ色か桜色でしょ」。完全燃焼をした芸能生活。今は「森昌子」という大きな看板を下ろした後の人生をただ、楽しみにしている。【松本久】

▼「哀しみ本線日本海」「バラ色の未来」などを手がけた作曲家浜圭介氏(73)

デビュー当時からすごく興味がありました。だから「昌子さんに曲を書きませんか」と声がかかった時は、天にも昇る思いがしました。「大人の歌をうたえる歌手にしよう」と思い、作ったのが「哀しみ本線日本海」(81年)からの3部作。それを見事に歌いこなしてくれました。再デビューの時には、曲を書かせて欲しいと自分からアタックしました。彼女とは運命的なものがある気がします。これからは、妻(元歌手の奥村チヨ)ともども、家族ぐるみのお付き合いをしたいですね。

◆森昌子(もり・まさこ)

本名・森田昌子。1958年(昭33)10月13日、栃木県生まれ。72年に「せんせい」でデビュー。「同級生」「中学三年生」と続く学園3部作がいずれもヒット。代表曲に「なみだの桟橋」「哀しみ本線日本海」「越冬つばめ」など。紅白歌合戦には15回出場。11年4月から東北慰問活動を行い、岩手県復興大使に任命される。著書に「明日へ」「母親力」など。

◆宇都宮二荒山神社

古墳時代の第10代崇神天皇の第1皇子を主祭神とする。源頼朝や徳川家康らも戦勝祈願したとされる。

(2019年12月15日本紙掲載)