ロバート・レッドフォードが亡くなった。ハリウッドを代表するスター俳優でありながら、他のセレブとは一線を画した特異な存在でもあった。

84年夏の初来日時のスター然とした様子は今でも鮮明に覚えている。専用機での到着だったため、成田空港のいつもの税関出口とは違い、駐機したガルフ・ストリーム(全長24・4メートル)を滑走路上で取材陣が取り囲む形となった。10段のタラップを3歩半で軽やかに降りたレッドフォードの、文字通りさわやかな笑顔が記憶に焼きついた。

当時46歳。二枚目スターとして全盛期だったが、一方でこの4年前に監督第1作の「普通の人々」でアカデミー監督賞を得ている。当時はキャッチーにアレンジした邦題が多かったが、原題の「Ordinary People」を直訳しただけのこの映画は、家庭内の細やかな心情を映したこれ以上ない地味な作品だった。監督としてのシブい作風にスター俳優の意外な一面を見た気がした。

そんなレッドフォードの生き方にリスペクトの念を抱いていたのが高倉健だ。健さんの人気シリーズ「昭和残侠伝」のプロデューサー、吉田達さんからこんな話を聞いたことがある。

「健さんはロバート・アルドリッチ監督の『燃える戦場』(70年)に出演してから、ハリウッド俳優のことをよく話すようになったんですけど、その中で頻繁に名前が出たのがレッドフォードでした。『明日に向って撃て!』で注目されたのが33歳と実は遅咲き。不器用な健さんがようやく東映の看板スターに名を連ねたのも同じ33歳なんですよ。世間は二枚目スターとしてしか見ないけど、実は複雑な思いを抱えている。そんな心情を重ねていたのだと思います」

「明日に向かって撃て!」(69年)撮影当時、共演のポール・ニューマンはすでに大スターだった。当初はスティーブ・マックイーンが出演する予定だったが、多忙で調整がつかず、ニューマン夫人のジョアン・ウッドワードの推薦で無名のレッドフォードに白羽の矢が立ったと言われる。

以来、ニューマンと親交を深めたレッドーフォードは、ハリウッドのセレヴたちから離れて東海岸に住んだ彼に倣うように、カリフォルニア州とはネバダ州を挟んで距離のあるユタ州に居を構えた。

81年からはそのユタ州で、「明日に-」の役名を冠した「サンダンス映画祭」を毎年主催した。若手のインディー作品にスポットを当てたこの催しで、クエンティン・タランティーノやポール・トーマス・アンダーソンといった後のスター監督の発掘にひと役買っている。この映画祭には遅咲きスターならでは思いが込められていたのだと思う。

個人的には「追憶」(73年)がレッドフォードのNo.1作品だ。バーブラ・ストライサンドふんするとんがった活動家と脚本家としての才能を開花させる温厚な青年レッドフォードの出会いと別れを描き、学生運動が盛んだった激動の時代を映した秀作だった。

おっとりとして実は才能豊かな二枚目がレッドフォードのはまり役だったように思う。いつの間にか周囲から評価され、人が集まる劇中キャラは、素顔にも重なっているように思える。純粋な思いで始めた「サンダンス映画祭」はビジネス的な成功も収めたからだ。若い監督や俳優だけでなく、毎年この催しには大手配給会社の買い付け担当や大手俳優エージェントなど、スーツ組も詰めかけ、今やハリウッドで最も重要な才能発掘の場となっている。米映画界にとって文字通り貴重な存在だった。【相原斎】