JFL鈴鹿ポイントゲッターズのFWカズ(三浦知良)が国立競技場のピッチに立った。日本一を争うJ1や天皇杯でも、W杯出場を争う日本代表の試合でもない。それでも、スタンドはカズ見たさに大勢のファン。JFL史上最多1万6812人を集めた。従来の記録が作られた14年前は、現Jクラブが多く所属していた時代、4部相当となった今と人数は重みが違う。

思ったのは、やはり「カズは国立が似合う」ということ。JFL仕様の小さなスタンドから近くにカズを見るのもいいが、国立の威容の中にあってこそ、カズは「映える」。スピードがあるわけでも、強シュートがあるわけでもない。際立ったものはない「普通の」プレーでも、目立つ白髪とともに存在感は抜群だ。

J1での20ゴールや国際Aマッチでの32得点など、記憶とともに数々の記録も残している。もちろん、ほとんど歴代最多。「たくさん試合しているから」と本人は淡々としているが、国立を「サッカーの聖地」にまでした選手こそが、カズ自身なのだと思う。

64年東京五輪のメイン会場となった以前の国立競技場では、多くのサッカー試合も行われていた。もっとも、70、80年代のサッカー低迷期には、大きすぎる会場だった。日本リーグでも使われていたが、スタンドはガラガラ。酔客のヤジが会場中に響き、選手は家族を探して手を振った。

当時、国立にファンが集まるのは12月の第2日曜日と1月8日。欧州と南米王者が世界一を決めるトヨタ杯と高校選手権決勝だけだった。日本リーグや代表戦は集客に苦戦。国立は特別な「ハレの日」だけのもので、簡単に「聖地」と呼べるものではなかった。

「コニカカップって、あったでしょ。あの時を思い出したよ」。この日、日本リーグ時代から取材する記者たちの前で、カズは言った。90年7月にブラジルから帰国し、初めて国立のピッチに立ったのが11月の同大会決勝。プロ化に向けて同年に新設された賞金大会の決勝観客数が、この日とほぼ同じぐらいだった。

それでも、当時2万人近く入れば上々。「都並(敏史)さんが、カズの力でたくさん入ったなと言っていた」とカズ。ヤマハ(現磐田)を破ってタイトルを獲得し、読売人気、いやカズ人気は一気に沸騰した。

試合ごとに観客数は増えていった。カズ加入の90ー91年シーズンの観客は前年の倍。国立での試合も増えた。日本リーグ最後の91ー92年シーズンは、読売の優勝が決まった後の日産(現横浜)戦では6万チケットが完売した。日本リーグが28年間夢に見ていた「満員の国立」が実現した。

その後、Jリーグが誕生し、W杯予選の日本代表が注目され、国立の「満員札止め」は日常になった。W杯日韓大会の2002年よりも前、重要な試合はすべて国立だった。カズの活躍が、国立をサッカーファン以外も知る「サッカーの聖地」へと成長させた。

もちろん、カズだけの力とは言わない。読売にはラモスや武田、日産には木村や井原、各クラブに個性的なスターがいた。しかし、その中心にカズがいたのは間違いない。誰もがそう認めるからこそ、新しい国立の開場イベントでピッチに第1歩を踏み出す大役を任された。「国立」「聖地」「カズ」が1つになった。

2万人が大観衆だったコニカカップ決勝から32年、サッカー界は大きく変貌を遂げた。だからこそ、カズにとって国立は「重みがある。特別な場所」なのだ。「新しい国立の歴史の1つになれた。これから、さらに歴史をつくっていってほしい」。最後の国立であることを覚悟しているのか、カズは国立の歴史作りを後進に託すように晴れやかな表情で言った。【荻島弘一】

新宿対鈴鹿 試合を終え声援に応える鈴鹿・カズ(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 試合を終え声援に応える鈴鹿・カズ(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 後半、決定機に味方からのパスが通らず悔しさをにじませる鈴鹿・カズ(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 後半、決定機に味方からのパスが通らず悔しさをにじませる鈴鹿・カズ(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 新宿に勝利しチームメートと抱き合う鈴鹿・カズ(左)(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 新宿に勝利しチームメートと抱き合う鈴鹿・カズ(左)(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 後半、交代の準備をする鈴鹿・カズ(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 後半、交代の準備をする鈴鹿・カズ(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 後半、途中交代で国立競技場のピッチに立つ鈴鹿・カズ(右)(撮影・横山健太)
新宿対鈴鹿 後半、途中交代で国立競技場のピッチに立つ鈴鹿・カズ(右)(撮影・横山健太)