日本サッカーの功労者が亡くなって、もうすぐ1カ月になる。ブラジル・サンパウロ州のクラブ、パウリスタは4月14日、ルイス・ベゼーハ・ダ・シルバさんが亡くなったと発表した。同国の大手メディアも、訃報を伝えた。65歳。がんだったという。

ベゼーハさんはプロの「ホペイロ」。選手でも監督でも、コーチでもないが、王国ブラジルでも強豪を渡り歩き、よく知られた人物だった。ホペイロとは、スパイクやユニホームなど、すべての用具を管理し、準備する専門職。日本にも、サッカーに不可欠なそのプロの仕事を、自らの存在そのもので伝え、根付かせようとした人物だ。

かつて、ホペイロとして在籍した東京ヴェルディや浦和レッズも、すぐにクラブ公式サイトに、追悼メッセージを掲載した。試合では一切目立たない裏方だが、誰からも、誰よりも愛されたプロ中のプロ。ブラジル代表でもホペイロを務めた実績がある。最期まで現役で、生涯一ホペイロを貫き通した現場の人だった。

地球の裏側から、日本に届いた訃報。第一報は、ベゼーハさんの一番弟子、現在、京都サンガで、日本人初のプロのホペイロとしてチームを支えている松浦紀典さんのスマートフォンに届いた。送信元はベゼーハさんの息子さん。「父が日本でお世話になった皆さんに、お礼とともに、伝えて下さい」とあった。すぐ、松浦さんから、元日本代表の柱谷哲二さん、武田修宏さん、ラモス瑠偉さん、カズ(三浦知良)らヴェルディ黄金期にベゼーハさんに支えられ、ともに過ごした面々にも伝えられた。

ベゼーハさんは、1991年、Jリーグ創設前の読売クラブにやって来た。ブラジルでプロとして活躍していたカズが、王国での経験からラモスらと、クラブにホペイロ雇用を直談判し、招聘(しょうへい)が実現したという。Jリーグ創生期に黄金時代を築いたヴェルディをプロの仕事で支え、数々のタイトル獲得にも貢献した。在籍は1998年まで。その後、2001年に再び来日し、浦和レッズでチームを献身的に支えた。

その仕事とともに、「日本でも日本人のプロのホペイロを育てたい」と、後継者の育成にも取り組んだ。ベゼーハさんが読売クラブにいた当時、たまたま友人と試合を観戦に行った松浦さんはまだ、サラリーマンだった。後の一番弟子は、サッカーは好きだったが、まさかホペイロになるとは思っていなかった。運命のいたずらなのか、たまたま一緒に観戦に行った友人がポルトガル語が堪能だった。当時はセキュリティーも甘く、選手やスタッフと観客のエリアの区別もあいまいだった。日差しが強い日で、自動販売機でジュースを買って飲んでいた。すると、向こうから、ひと仕事終えた外国人がやって来た。それがベゼーハさんとの出会いだった。

話していると、片言の日本語で、サッカーが好きなら、ホペイロという仕事に興味があるなら、土日に練習場に遊びにおいでと誘われた。後日、軽い気持ちで、ベゼーハさんを訪ねると、歓迎してくれた。そして告げられた。「アナタ、ワタシ、手伝うネ」。少しずつ休日に仕事を手伝ったりするうちに、見習いとなり、弟子として正式に雇われることに。1993年、脱サラして、サッカー界に飛び込んだ。

たたき込まれたのは、仕事に対する姿勢だった。「絶対に妥協しない」「ホペイロは選手のようにピッチでは戦えないが、選手と同じ戦う気持ちで仕事にあたる」「試合終了のホイッスルは、ホペイロにとって次の試合開始の合図」。松浦さんは、今も心に刻んでいる。

1シーズンだけ、師弟が敵味方に分かれて戦ったことがある。ベゼーハさんが、浦和レッズに在籍していた2001年。当時、引き続きヴェルディにいた松浦さんは、初めての直接対決前夜、電話で連絡した。「試合の準備がすべて終わったら、迎えに行くから、ロッカー室を見に来てほしい」と伝えた。

互いに準備が一段落し、ロッカー室で再会。準備されたユニホームやスパイク、完璧に整えられたその一室を隅から隅まで見渡して、ベゼーハさんは、抱きしめてくれた。そして耳元で「完璧だ。教えたことをすべてやってくれているし、それ以上に、もっともっと良くなっている」と告げてくれた。免許皆伝。この言葉を支えに、松浦さんは、今も日本の第一人者としてプライドを胸に仕事にあたっている。

ベゼーハさんが、いかにすごかったか-。エピソードはたくさんある。神様がPKにつばを吐く“大事件”が起きるなど、覇権を争い、犬猿の仲とされた、当時のヴェルディと鹿島アントラーズ。鹿島の神様、ジーコはベゼーハさんと話すために、それまで一切寄りつかなかった宿敵の控室にやって来た。その姿を見て、ホペイロがまだどんな仕事なのか、はっきりとは認識できていなかったヴェルディの若手選手たちは「ベゼーハ、すげー!!」と声をあげたという。

松浦さんは、師匠の思いを胸に、ホペイロという仕事をもっともっと日本に根付かせようと、今も奮闘し続けている。名古屋グランパス在籍時に、まだ若手だった本田圭佑や吉田麻也ら、後の日本代表の主力にも信頼され、用具の管理を任されていた。2人が名古屋を離れ、海外移籍してからも、付き合いは続いた。チームの枠を超え、頼まれれば、できる範囲で手助けしてきた他の多くの日本代表選手もいる。ワールドカップ(W杯)で日の丸を背負ってプレーし、勝利に貢献した多くの選手をサポートしてきた。

ベゼーハさんのプロの仕事と信念は、松浦さんを通じて、日本代表にも注入されていることになる。50歳になった一番弟子は、訃報に接し「人生で一番泣いた」という。そして、師匠との日々を思い返し、あらためて感謝の思いを口にした。

「本当に、感謝しかないですね。ベゼーハさんが日本に来てくれなければ、今の自分は存在しない。それより何より、ベゼーハさんの日本サッカーへの貢献は、本当に大きい。伝えてくれたのは、ホペイロの世界の、超一流のところですから」

ベゼーハさんは、日本の桜が大好きだった。毎年、春になると松浦さんに連絡があったという。「まっちゃん、桜の写真を送ってよ」と。ベゼーハさんが旅立ったのも、桜の季節だった。ブラジルからだと遠いが、天国からなら日本もきっと近いはず。今も、これからも、Jリーグや日本サッカーを、大好きな春の桜とともに気に掛けて、楽しみに見守ってくれるに違いない。【八反誠】