第76回びわ湖毎日マラソン(大津市皇子山陸上競技場発着)は28日、滋賀を舞台とした最後の大会が行われる。22年からは大阪マラソンと統合。節目のレースを前に、72年ミュンヘンオリンピック(五輪)代表の采谷(うねたに)義秋さん(76)が直筆メモに思いを寄せた。71年(第26回)の覇者は昨年12月に喉頭がんのため、声帯を摘出。高校教師を務めながら走った“元祖市民ランナー”は、広島・呉市内の病院から選手の走りを見守る。

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軍港で栄えた呉の海を望む病院の一室で、采谷さんは思いにふけった。昨年、食事を喉に詰めて判明した喉頭がん。声帯を摘出した上に、新型コロナウイルスの影響で家族と面会もかなわない。病院のスタッフを通じて妻の宣子さん(73)からメモを受け取り、びわ湖の思い出を書き記した。

「なくなるのは非常にさびしい思いがする」

約半世紀前の1973年、雪が舞う大会で世界を感じた。72年ミュンヘン五輪金メダリスト、米国のフランク・ショーターが沿道の観衆が振る小旗を集め始めた。レース中に草むらで用を足し、小旗で尻を拭くと、そこから大会新記録で優勝。3位の采谷さんにとっては、びわ湖で立った最後の表彰台になった。

「この大会は私にとっては2位が2回、3位が2回とゲンの良い大会であった」

その5年前は歯がゆさが残った。68年4月14日、びわ湖がメキシコシティー五輪代表最終選考会だった。

「食事と給水に失敗して空腹になり、35キロ手前でスピードダウンして残念ながら2位になり、一応メキシコ大会代表になったが最終的には補欠で惜しかった」

優勝した宇佐美彰朗、3位の君原健二と初めての五輪切符をつかんだ。だが「采谷には専任コーチがいない」「メキシコでは未知数」との声が上がり、五輪では補欠。君原が五輪本番で銀メダルを獲得する巡り合わせもあった。精神的にどん底を味わっても広島に戻り、生徒と共に走り続けた。4年後の72年。悲願成就の場もまた、びわ湖だった。

「最終選考で3位になり、オリンピック代表に選ばれてうれしかった。でも前年大会で2位に3分以上離して、優勝したことが一番うれしかった」

ミュンヘン五輪前年の71年、初優勝は大きな自信になった。3月ながら気温25度の暑さの中、折り返し点を過ぎた23キロから独走。2時間16分45秒で飾った初優勝は今も色あせていない。

頂点からちょうど50年の年月が流れた。滋賀を舞台にした最後の大会には、同じ市民ランナーとして気に懸けてきた川内優輝(33=あいおいニッセイ同和損保)らが出場。琵琶湖の風に立ち向かう選手に、采谷さんは若かりし頃の自分を重ねる。呉の病室で春の訪れを感じている。【松本航】

◆采谷義秋(うねたに・よしあき)1944年(昭19)10月6日、広島・呉市生まれ。広島電機大付高(現広島国際学院)から日体大に進み、箱根駅伝に3度出場。69年ボストンマラソンでは大会新記録となる2時間13分49秒で優勝。72年ミュンヘン五輪は36位。

<取材後記>

25日の夕方、私の自宅に広島から1通の封筒が届いた。中身は前日24日に記された采谷さんのメモ。呉市の病院で書かれたものを妻宣子さんが送ってくれた。

元々はショーターが主役となった、73年大会について取材を進めていた。宣子さんと電話でやりとりし、采谷さんが喉頭がんで声帯を摘出、電話取材が難しいことを聞いた。コロナ禍で家族との面会も禁止。それでも宣子さんが23日にメモを病院スタッフに託し、受け取った采谷さんが記入する形で貴重な話を聞けた。

宣子さんは「病室に資料はないのに順位を全部覚えていたみたいです」と口にした。孤独な闘病を支えているのが過去の自分なのだろう。退院された時には、直接会って経験談を伺いたい。【五輪担当=松本航】