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第417回    財津一郎  
2004.06.13付紙面より

財津一郎
写真=「助けてチョーダイ! 」。その誕生秘話を熱演しながら再現した瞬間です。せまい部屋、数人の前でも、全力で演技する姿に、感動しました。20年も前の新三共胃腸薬のCM。♪食べて飲んで、そして歌って〜いた、財津さんを見て好きになった私には、忘れられない1日となりました
(写真と文・鈴木豊)

演劇人生ってキビシ〜ッ!だけど悔いない

 「艱難(かんなん)辛苦を我に与えたまえ」「プラスとマイナスの札があったらあえてマイナスを引く」。俳優財津一郎(70)の生き方だ。「助けてチョーダイ」「サミシーッ」などの名セリフで一世を風靡(ふうび)し、今はNHK朝の連続テレビ小説「天花」に出演し、ヒロインの祖父役で老練な演技を見せている。常に時代の先頭にいた印象もあるが、51年間の演劇人生は、冒頭の言葉通りだった。


刻まれたシワ

 朝ドラ「天花」のリハーサル開始まで1時間足らず。財津はスタジオ横の一室に現れ、パイプいすにどっかと座った。表情は落ち着いたものだが、刻まれたしわには幾多の苦難がしみこんでいる。特別な作品、俳優に影響を受けたわけではないが、終戦後の苦しい生活の中で、現実と対照的な演劇が生み出す世界にとりこになって以来、51年。人に夢や感動を与えようという志の道のりは、あまりに険しかった。

 「熊本から上京し、早大の演劇科を受験(53年)して失敗しましてね。正門前の印刷所で住み込みで働きました。翌年も受けようと思ったけど、食べるのがやっとで受験料がない。夜、大隈重信公の銅像の前でよく『あなたは扉を開いてくれなかった。自分が悪いが、まことに残念』と語りかけてました。そのうち『4年間も青春を費やすより、実践でいこう』と気持ちを切り替えました」。

 同年、帝劇ミュージカルに参加し、国会風刺劇「赤い絨毯(じゅうたん)」で初舞台を踏んだ。バックコーラスだったが、主役のせりふを今も覚えている。だが劇団はシネラマ(新型映画館)の影響で2年後(55年)につぶれた。

 「悔しかった。ここで青春を完全燃焼しようと思ったからね、コッペパンを持って楽屋前に毎日通って未練たらしく一日中見てました。改装工事のトンテンカンという音を聞きながらね。それから僕の放浪が始まりましたよ」。

 劇団の仲間が東宝演劇部や撮影所に救われる中、食べるためにヌード劇場など全国のさまざまな舞台を転々とした。61年、劇団ムーラン・ルージュにたどり着いたが、1年半でつぶれてしまった。

 「三日月に向かって『願わくば我に艱難辛苦を与えたまえ』と言った戦国武将山中鹿之介の心境でした。つらいが負けられない。演劇は人生をかけるにたるものと信じてましたから」。

 先が見えない中で、どう自分を支えてきたのか。

 「『今は勝負じゃない。今は勝負じゃない。今じゃない』と独白です。毎日、自分に言い聞かせるように唱えました。それから将来に備え、へばらないように、ポケットにいりこと昆布を必ず入れてました」。

 食べるのもやっとの生活だったが、たとえ年をとってもまだ老け役があると耐えた。


いつかきっと

 「待つことは喜びだね。サムデー、いつかきっと。たとえしいたげられても、その分強くなってみせる。マイナスとプラスのカードがあったらマイナスをあえて引きますよ。『バカだな、あいつ』と笑われても、若い時代に砂をかむ思いでやった人が中年のいい顔になったら、あとは何十年もやれますよ」。

 64年、流れ着いた大阪で吉本新喜劇に入った。家は寺の離れ。住職の厚意で家賃は無料。60年に結婚した妻と1歳の息子の3人暮らし。ラーメン1杯50円の時代に、収入は月1万〜2万円だった。

 「畳は古くて、波うってましたよ。おべべやオーバーはほとんど質に出してました。子供に栄養と思って、1山50円のクジラのベーコンを買って帰ったこともありますが」。

 この地で思いがけなくスポットライトを浴びるきっかけをつかんだ。「サミシーッ」「助けてチョーダイ」など名セリフの誕生だった。

 「吉本新喜劇の舞台で、チャンバラをやっている最中に竹みつが折れたんです。天に向かって『助けてチョーダイ』と思わず叫んでしまったんですよ。シェークスピアの作品で、リチャード3世が死ぬ直前『神よ助けたまえ』と叫んだ、あの気分。行き詰まった気持ちがそのまま口から出てしまったんです。客から大笑いされました。ショックでした。何でここで笑うのかとね」。

 しかし、初舞台から13年、そのセリフが評判となり、66年から人気コメディー「てなもんや三度笠」に出演した。32歳だった。名前は一気に全国区に。テレビやラジオの仕事も急増し、いよいよ念願の風が吹いてきたが…。

 「テレビで人気になっても4年か5年は食べられませんでしたよ。座長になってやっと月給10万円くらいになりました。ただ、機転が利かないから生活は安定しなかったな」。

 有名になっても「名作だから」と安いギャラの仕事もこなした。収入より、いい作品といい役の方が魅力だった。

 「家族は何も言いませんでした。口に言えない苦労をかけていますよ。今は恩返ししてます。毎日、掃除したり、ゴミを出したり。罪ほろぼしですよ」。


辞退トラブル

 トラブルもあった。79年には井上ひさし氏が脚本を書いた舞台「小林一茶」の出演を辞退した。所属事務所は台本の遅れや役柄の変更などを理由に挙げた。井上氏側も「こちらが降ろした」と譲らなかったが、財津は何も語らず、真相はやぶの中だった。

 「いろいろあるが、今、言っても何もならんでしょ」。

 でも、心の扉を少しだけ開けてくれた。

 「辞退でプレッシャーはありました。これで演劇はできなくなるかなとね。そこまで考えて覚悟を決めたんです。本が遅く、初日も開けられない。プロなら早く書いてと思いました。ただ、今は物を生み出す苦しみを知り、命を削って書いているんだと思うようになりました。あの時はあれしか道はなかった。うらみは何も、誰にもないです」。

 いつも真剣勝負。しかし、若い時には譲れなかったことも年をとるにつれ、考え方に変化はあった。


目尻下がる孫

 苦労話が続き、少し硬かった表情も、話題が4歳の孫やドラマなど現在にたどりつくと、目尻が下がりっぱなしになった。

 「孫は男の子。帰宅すると『ジージー』と抱きついてくるんです。抱きしめたとき、命の輝きを肌で感じ『まだ、この子のために命を燃やさないとだめだ』という気になりますね」。

 実は、70歳を迎え「完全燃焼した。あと何年やれるか、逆算の世代だ」と考えていた。が「天花」でもうひと頑張りする気持ちになれた。戦地から生還後、米づくりに命を燃やす、ヒロインの祖父佐藤信一郎役。孫に命の尊さや生き方を教える老練な演技が光る。

 「神が与えてくれた役だと思いましたよ。焼け野原で地獄の思いをした敗戦。どうはい上がってきたか、ぼくらは実際に見て育ったブリッジングエージ(橋渡し世代)。若い人は急ぎすぎ。『ちょっと待ってくれ。こういう歴史があって、こうなったから今がある。僕の記憶の中でさえ、これだけのものがあるんだよ』。そんな思いを伝えることができる」。

 若い俳優の成長もうれしい。

 「ヒロイン藤沢さんや妹役のサエコさんに囲まれ、お花畑みたいに明るい。こんな生活は夢のまた夢」。

 妻、息子夫婦、孫との5人暮らし。健康のため、50歳で始めたゴルフはハンディ10。罪ほろぼしにと、妻とラウンドすることもしばしばだ。キビシーッ俳優人生だったが、悔いはない。


おじいちゃんみたいなやさしさ

 「天花」のヒロイン藤沢恵麻(21) 財津さんとの掛け合いのシーンでは、本当におじいちゃんと話しているように思えるんです。質問した時には丁寧に教えてくださいます。私が困っているんじゃないかと思われた時には、絶対に声をかけてくださいますし、スタッフに「こういうのを用意してあげてくれるかな」と言ってくださったり。集中できない時、本当に安心できるんです。財津さん、いつも優しくお声をかけてくださいまして、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。


 ◆天花◆ 3月末からスタートしたNHK朝ドラ。仙台を舞台に、ヒロイン佐藤天花(藤沢恵麻)が祖父と一緒にコメづくりに情熱を傾ける。その後、保育士を目指し、さまざまな試練を乗り越えて成長する姿を描く


 ◆てなもんや三度笠 62年5月から68年まで大阪朝日放送で放送されたコメディー。藤田まこと、白木みのるらが出演。何をやっても失敗ばかりのあんかけの時次郎(藤田)が、小生意気な僧珍念(白木)の性根を鍛え直そうと旅する珍道中。財津は66年から浪人蛇口一角役で出演。剣の達人だが、何事もオーバーな表現をする濃いめのキャラクターだった。


 ◆財津一郎(ざいつ・いちろう) 本名・財津永栄(ながひで)。1934年(昭和9年)2月22日、熊本県生まれ。53年に高校を卒業し、帝劇ミュージカルの研究生となり、「赤い絨毯」で初舞台。日劇ミュージックホール、ムーラン・ルージュ、吉本新喜劇などを転々とし、66年コメディー「てなもんや三度笠」で人気に。70年には映画「喜劇・度胸一番」に初出演。85年には「野風増」で歌手デビューした。60年に元新劇女優の武山洋子と結婚。血液型O。


(取材・中野由喜)

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