信用筋からの言質「決まったよ。ミスターで決まった」/スクープの裏側1992〈2〉

初めて会う長嶋茂雄は明らかにいらだっていた。

「もういいでしょう!」

質問は受け付けないとばかり、さっさと家の中に入っていく。陽気で誰に対しても気さく。抱いていたイメージと違う長嶋の対応に、プロ野球担当1年目、29歳の森田久志はちょっと驚いた―。

プロ野球

1992年の「長嶋復帰」スクープに絡む相関図。川上、氏家の両氏は鬼籍に入った

1992年の「長嶋復帰」スクープに絡む相関図。川上、氏家の両氏は鬼籍に入った

1992年(平4)9月18日、日刊スポーツは「長嶋巨人監督復帰」のスクープを掲載した。当時入社5年目の私は横浜大洋の担当。取材にはかかわっていないが、ニュースを追いかける記者たちの熱は覚えている。翌93年から巨人を担当し、長嶋茂雄の存在を肌で感じたからこそ、12年ぶりの現場復帰を最初に報じた価値が分かる。現在は同僚と交代で編集長を務め、各部署と協議して新聞の1面を決める立場にある。新聞離れが言われて久しく、1面で報じる影響力も、時代とともに変化している。「長嶋復帰」から30年。取材にかかわった先輩たちの証言をもとに、当時の群像を追った。(敬称略)

1992年9月17日午後〈都内某所〉矢後洋一

通い慣れた道を歩き、最寄り駅からジャスト5分でその家に着いた。9月中旬とは言っても、まだ、日中には熱気が残っている。矢後洋一はうっすらと汗をかいていた。

腕時計にちらっと目をやった。「ちょっと早かったかな」。約束の時間より早く着いてしまった。しかし、その家のあるじが、家にいるときは早めに夕食をとることを思い出し「だったらちょうどいいか」とピンポンを鳴らした。

玄関から右手に応接間がある。外庭との間に設置されたサンテラスには、ようやく傾きかけた日差しが降り注いでいた。あるじはポロシャツにスラックスという、リラックスした格好で矢後を迎えた。

3人いる巨人担当で、矢後は真ん中のポジションだった。33歳。記者としては最も脂が乗る時期を迎えつつあった。

懐疑心が功奏 フラットに聞ける

上司から聞いた話では、ここに来て、巨人の次期監督は長嶋茂雄が1歩リードしている。しかし、矢後は懐疑的だった。

「これまで散々、復帰する復帰すると言われて、それでも復帰してこなかった。今回もそうじゃないかな」

逆に言えば、余計な先入観はない。この家のあるじ、巨人首脳ともフラットに会話できていた。

息子の一茂がドジャースに留学。様子を見に米フロリダ州ベロビーチを訪れた。半年後、冒頭の写真に=1992年4月14

息子の一茂がドジャースに留学。様子を見に米フロリダ州ベロビーチを訪れた。半年後、冒頭の写真に=1992年4月14

いつものように世間話をし、最近の巨人の戦いぶりについて、互いに思うところを言い合う。アイスコーヒーのおかわりに口をつけたところだったから、1時間くらいたった頃か。矢後はこれまたいつものように、何げなく聞いた。

「ところで監督人事はどうなんでしょうかねえ」

あるじは答えた。

「決まったよ。ミスターで決まった」

心臓の鼓動が早まった。

1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。