読売の力学が長嶋復帰に振れた 川上哲治の明言なき肯定/スクープの裏側1992〈4〉

急な訪問を詫びたあと、今村孝二は切り出した。

「実は巨人の次の監督に長嶋さんが決まったという情報があります。川上さんの耳に何か入っておられないでしょうか」

黙って話を聞いていた川上哲治は、今村の目を見すえて言った。

「もう俺のところには話は聞こえてこないんだよ、今村君」―。

プロ野球

1992年の「長嶋復帰」スクープに絡む相関図。川上、氏家の両氏は鬼籍に入った

1992年の「長嶋復帰」スクープに絡む相関図。川上、氏家の両氏は鬼籍に入った

1992年(平4)9月18日、日刊スポーツは「長嶋巨人監督復帰」のスクープを掲載した。当時入社5年目の私は横浜大洋の担当。取材にはかかわっていないが、ニュースを追いかける記者たちの熱は覚えている。翌93年から巨人を担当し、長嶋茂雄の存在を肌で感じたからこそ、12年ぶりの現場復帰を最初に報じた価値が分かる。現在は同僚と交代で編集長を務め、各部署と協議して新聞の1面を決める立場にある。新聞離れが言われて久しく、1面で報じる影響力も、時代とともに変化している。「長嶋復帰」から30年。取材にかかわった先輩たちの証言をもとに、当時の群像を追った。情報が積み上がり、最後に控える大物へ裏取り…いや、筋通しに向かう最終話。(所属、役職などは当時。敬称略)

1992年9月17日夜〈世田谷の川上邸へ急行〉今村孝二・田口雅雄

会社のハイヤーで川上哲治の自宅に乗り付けた野球部長の今村孝二は、呼び鈴を押す前に小さく息を吐いた。

訪問の用件は伝えていた。川上は日刊スポーツ所属の評論家で、もちろん面識はある。それでも1人では不安だった。川上との付き合いが長い、編集委員の田口雅雄と一緒に、川上家の重厚な木扉を開けた。

川上は洋服に着替えていた。いや、着替えたのかどうかは定かではない。時刻は午後7時を過ぎていた。いつもなら、とうに晩酌の始まっている時間だ。今村の記憶では、川上の晩酌姿はいつも着物だった。

報道陣との草野球で球審を買って出た長嶋と、捕手の川上監督。良好な関係が続いたが…=1964年2月

報道陣との草野球で球審を買って出た長嶋と、捕手の川上監督。良好な関係が続いたが…=1964年2月

急な訪問を詫びたあと、今村は切り出した。

「実は巨人の次の監督に長嶋さんが決まったという情報があります。川上さんの耳に何か入っておられないでしょうか」

今村はここまでの取材の成果をていねいに説明した。ただ、数時間前に矢後洋一がつかんだ話の情報源については、「読売首脳」としか明かさなかった。

黙って話を聞いていた川上は、今村の目を見すえて言った。

「もう俺のところには話は聞こえてこないんだよ、今村君」

第1次政権で解任 務台光雄と昵懇

川上の表情がどうだったか、今村は覚えていない。ただ、諭すような、穏やかな言い方だったことは記憶している。

1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。