読売ツートップの一角・氏家齊一郎を崩した人たらし/スクープの裏側1992〈3〉

氏家齊一郎が帰ってきた。いつものように家に上がり込むと、内山泰志は単刀直入に聞いた。

「長嶋さんで決まったという情報があります」

氏家は答えた。

「巨人の監督は決まったよ。次の次まで決まっているんだよ」―

プロ野球

1992年の「長嶋復帰」スクープに絡む相関図。川上、氏家の両氏は鬼籍に入った

1992年の「長嶋復帰」スクープに絡む相関図。川上、氏家の両氏は鬼籍に入った

1992年(平4)9月18日、日刊スポーツは「長嶋巨人監督復帰」のスクープを掲載した。当時入社5年目の私は横浜大洋の担当。取材にはかかわっていないが、ニュースを追いかける記者たちの熱は覚えている。翌93年から巨人を担当し、長嶋茂雄の存在を肌で感じたからこそ、12年ぶりの現場復帰を最初に報じた価値が分かる。現在は同僚と交代で編集長を務め、各部署と協議して新聞の1面を決める立場にある。新聞離れが言われて久しく、1面で報じる影響力も、時代とともに変化している。「長嶋復帰」から30年。取材にかかわった先輩たちの証言をもとに、当時の群像を全4回で追った。権力の中枢に迫り、勝負をかける第3話。(所属、役職などは当時。敬称略)

1992年9月17日〈築地?阿佐ヶ谷〉石井秀一、内山泰志

編集局内はタバコの煙で白くかすんでいた。机の上に灰皿は置いてあるが、締め切りが迫るとみんな、灰から何まで足元に捨てる。床に散らばった原稿用紙に火が付くことはざらで、編集局内には水を張ったバケツがいくつも置かれていた。

当時の編集局、締め切り直後の様子。机にビールと焼酎、手にはタバコ。今では信じられない、おおらかな時代=1993年

当時の編集局、締め切り直後の様子。机にビールと焼酎、手にはタバコ。今では信じられない、おおらかな時代=1993年

築地にある日刊スポーツ本社の編集フロア。中央にあるソファに集まった男たちは、小さな声でささやきあった。

「ボチボチいかないと、他紙に(先に)やられるかもしれないな。勝負をかけよう」

野球部長の今村孝二と3人のデスクたちはうなずくと立ち上がった。

電子メールにLINE、そしてSNS。現代では情報を共有するのに時間も手間もかからなくなった。でも、携帯電話すら一般的には普及していなかった30年前、情報の共有は一仕事だった。

新聞社には「デスク」という立場の人間がいる。現場記者から情報を集め、内容を精査し、価値判断してコンテンツを発注する。

主な役割は今も昔も大きく変わらないが、かつてはデスクが情報共有におけるキーマンだった。記者たちはデスクを介して情報交換することで、効率的に仕事を進めることができた。

同期コンビ 武闘派デスクと穏健派キャップ

石井秀一はやり手のデスクだった。現場で巨人を担当していたころ、大スターの原辰徳と大げんかし、1年以上、口をきかなかった。

それでも、誰も知らない原辰徳のエピソードをいくつもつかんできて、周囲を驚かせた。「人はひとりでは生きられない」が口癖で、人脈を探り、たどることにたけていた。

この年の春、石井は巨人キャップだった内山泰志にある「特命」を与えた。

「氏家を落とせ」

ディエゴ・マラドーナ(手前)を、にこやかに取材する内山。面識なくとも物おじなどしない。世界に通ずる人たらし=1981年

ディエゴ・マラドーナ(手前)を、にこやかに取材する内山。面識なくとも物おじなどしない。世界に通ずる人たらし=1981年

日本テレビ放送網の氏家齊一郎(うじいえ・せいいちろう)社長。読売新聞社の経済記者として鳴らし、同社の渡辺恒雄社長とは大学時代からの盟友。巨人の最高経営会議メンバーのひとりでもあり、当然、球団の最高機密を知る立場だった。

1988年入社。プロ野球を中心に取材し、東京時代の日本ハム、最後の横浜大洋(現DeNA)、長嶋巨人を担当。今年4月、20年ぶりに現場記者に戻り、野球に限らず幅広く取材中。