【不運な大打者】中西太さんに足りなかった「5毛」のワケ…「怪童」全盛期を振り返る

西鉄の黄金期を支えた中西太さん(日刊スポーツ評論家)が、先月11日に死去しました。入団2年目、20歳にして本塁打、打点のタイトルを獲得したスラッガー。2冠となること4度を数えながら、3冠王にはあと1歩届きませんでした。1956年(昭31)は、その差わずか5毛で首位打者を逃し、2冠に終わっています。9年目からは手首痛を抱え、全盛期は短かった「怪童」。レジェンドは、不運な大打者ともいえました。

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◆中西太(なかにし・ふとし)1933年(昭8)4月11日、香川県生まれ。高松一から52年に西鉄入団。同年新人王。本塁打王5度、首位打者2度、打点王3度。62年から兼任監督となり、63年に西鉄最後の優勝。69年限りで現役引退、監督退任。現役通算1388試合、1262安打、244本塁打、785打点、打率3割7厘。74~75年日本ハム監督。79年に阪神打撃コーチ、80年途中から81年に監督。その後、ヤクルト、近鉄、オリックスなどでコーチを務めた。2023年5月11日、心不全のため90歳で死去。現役時代は172センチ、93キロ。右投げ右打ち。

3冠王かけた最終節 翌日の1面は…

コロナ禍前、神宮でヤクルト戦があると、中西さんがよく姿を見せた。ヤクルトの室内練習をのぞいたあと、ビジターチームの球場入りを待とうと、無人の三塁側ベンチに座り込んだ。「3冠王か? ワシらの時代には話題にならんかったなあ」。当時を知らない世代にも、気やすく語ってくれた。

入団5年目だった56年10月6日、西鉄は7-1で阪急を破り、優勝を決めた。残すは1試合、この時点で本塁打29、打点95は1位。打率3割2分4厘6毛は2位につけていた。同僚の豊田泰光が3割2分5厘1毛で首位。その差5毛しかなかった。翌7日の阪急戦は1打席で首位が入れ替わる展開に持ち込まれた。

笑顔で記念撮影する豊田泰光と中西太。1956年、西鉄ライオンズの誇る3、4番打者は「5毛」差の首位打者争いを演じた

笑顔で記念撮影する豊田泰光と中西太。1956年、西鉄ライオンズの誇る3、4番打者は「5毛」差の首位打者争いを演じた

その最終154試合目。西鉄の先発メンバーに2人の名前がない。

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徳島・吉野川市出身。1974年入社。
プロ野球、アマチュア野球と幅広く取材を続けてきた。シーズンオフには、だじゃれを駆使しながら意外なデータやエピソードを紹介する連載「ヨネちゃんのおシャレ野球学」を執筆。
春夏甲子園ではコラム「ヨネタニーズ・ファイル」を担当した。