【鍵山正和 ~哲~〈11〉】見届けた全日本王者への歩み 新たな教え子との日々

フィギュアスケート男子で、北京オリンピックで日本史上最年少メダル(個人銀、団体銀)を獲得した鍵山優真(21=オリエンタルバイオ/中京大)。その指導に就く父、鍵山正和コーチ(53)の哲学に迫る連載「鍵山正和 ~哲~」は、第10回、11回で2024-25年シーズンの前半戦を振り返ります。第11回は7度目の出場で優真が初優勝を飾った全日本選手権までの道のり、さらに来季からメインコーチに就任することが決まった22年北京五輪代表の河辺愛菜(20=中京大)へ指導する姿を描きます。(敬称略)

フィギュア

敗れて決まった鼓舞する言葉

フランス・グルノーブル、時刻は12月7日の午後9時40分を過ぎたころだった。

GPファイナルの試合会場のリンクサイドから優真の演技を見つめながら、探し続け、伝えようとしてきた言葉の輪郭がはっきりと描けた気がしていた。

ショートプログラム(SP)2位から迎えたフリーだった。

GPファイナルでのフリーの演技。マリニンには及ばなかった

GPファイナルでのフリーの演技。マリニンには及ばなかった

冒頭に大技の4回転フリップを決めて臨んだ4回転サルコー。

鋭さと柔らかさを兼ね備えた代名詞は、2回転になった。その後のジャンプはまとめきったが、2連覇を飾ったイリア・マリニンからは約10点差の銀メダル。

「『欲しいものがあったら、自分の力で取りにいかなければいけない』。このあたりから、そう言い続けることになりました。その言葉がいまの優真には一番合っていると思ったので」

今季、4回転ジャンプを跳ぶときに、弱気が出て回転をほどく姿が散見されてきた。転倒を恐れずに強引にでも体を締めにいくのではなく、引いてしまう。

4回転を認定されて転ぶ点数と、2回転や1回転で減点なしで降りた点数を比較しても、前者が勝るのは自明の理。

精神面の課題は、同時に採点競技の側面からも、勝利を遠ざけることになると感じていた。

ただ、GPシリーズ第5戦フィンランド大会では、結果は違った。

フリー冒頭の4回転フリップが抜けて1回転になるミスが出た以降も立て直せずに、シニア転向後の国際スケート連盟(ISU)公認大会での自己最低点159・12点と沈んだが、合計得点の順位には優勝を示す「1」の文字が記された。

「自ら取りに行かなくても、取れてしまった印象がありました。取れてしまうので、届かせて欲しいものから手を引いてしまう。そうではなく、なりふり構わずに挑んでいってほしい」

GPファイナルの表彰式。左から2位の鍵山、優勝のマリニン、3位の佐藤(2024年12月7日撮影)

GPファイナルの表彰式。左から2位の鍵山、優勝のマリニン、3位の佐藤(2024年12月7日撮影)

ファイナルでマリニンに敗れたこと、そのフリーの演技を見届けたことで、鼓舞する言葉は決まった。

欲しいもの、それは全日本王者の称号だった。残り2週間弱、伝えたいことはただ1つに定めた。

背負って知る全日本王者の重み

「時代も違う。同じにしてはいけないと思ってます」

父には3度、全日本選手権を制した経験がある。もう30年以上前。

93年12月、NHK杯で演技する鍵山正和

93年12月、NHK杯で演技する鍵山正和

息子の置かれた環境との違いは誰よりも感じている。ゆえに、自身に紐付くような声掛けは一切しなかった。

「『親子優勝』ということは本当に考えていなくて。余計な情報をいれたくなかった」

ただ、スケート界に生きてきた1人のスケーターとして、全日本王者という称号の持つ価値は深く感じていた。

「世界を取りにいく重みが、全日本で1番にならなければわからないんだろうなと思っていたんですよね」

優真は世界選手権にもオリンピックにも出場してきた。22年北京大会では銀メダルも手にしてきたが、挑む立場として2番手、3番手である事はずっと心にひっかかっていた。

「言葉で正確に言うのは難しい感覚ではあるんですが…。今までは追いかけた背中があった。『若い選手が元気よく言ってる言葉だな』と見て捉えられていたとは思います。全日本の1番てっぺんに立ったからこそ、本人がこれから発する言葉にも重みや責任感が増していくと思うんです。全日本のタイトルを取って初めて世界を狙っていけるっていう言葉が真実味を帯びてくると思うところがあります」

羽生結弦、宇野昌磨。これまで6度出場した全日本選手権では、常に表彰台の頂点に2人がいた。その背中越しに、世界舞台を見据えてきた。

「1番先頭に立つことで、視界がクリアになった状態で、そこをピンポイントで狙っていけると言えるのかなと思います」

そのイメージは経験則から沸く。自身が3度目の出場で初優勝した90年1月の第59回大会の後の記憶。

「巡り巡って聞こえてきましたよね」

日本代表の1番手で選ばれたその年の3月の世界選手権は、翌92年アルベールビル五輪の枠取りがかかった大会だった。

「あえて俺の先生もそこはうるさく言われた記憶がないですね。連盟から言われていたと思います、次の年オリンピックだったから。先生はたぶん散々言われたと思うんですけど、止めててくれたんですよ」

その重圧こそが、日の丸を背負って世界へ出て行くことだった。

そもそも、初めての全日本王者は涙とともにあった。

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2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて17年。25年4月に初の異動で野球部へ配属となりました。競技経験はありませんが、現在は息子が通う少年野球チームで“球拾い”コーチとして奮闘中。記者としても、様々な話題を拾います。ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。クラフトビール好きです。