【鷹取吾一〈下〉】本田真凜の最後の全日本、胸が熱くなった言葉…研磨職人としての願い

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第51弾は研磨職人の鷹取吾一さん(36)が登場します。小学5年生のころに競技を始め、鳥取代表で冬季国体に5度出場。現在は1953年創業の老舗スケート用品店「小杉スケート」で研磨職人として働き、男子で22年北京五輪銀メダルの鍵山優真ら、数多くのスケーターを支えています。

全3回連載の下編では、大学卒業後から現在に至るまでの日々を追憶。スケートに関わる者として、1つの願いがあります。(敬称略)

フィギュア

◆鷹取吾一(たかとり・ごいち)1988年(昭63)10月3日生まれ。鳥取県鳥取市出身。小学5年生で競技開始。現役時代の主な実績は、08年から鳥取代表で冬季国体に5年連続出場。鳥取東高―川崎医療福祉大を経て、30歳でスケート用品店「小杉スケート」に入社。現在は鍵山優真をはじめ、数多くのフィギュア選手の靴を調整する。小杉スケートは公式インスタグラム(kosugiskate)およびX(@KOSUGISKATE)でも情報発信中。

宇野昌磨さん、本田真凜さんと撮影する鷹取吾一さん(本人提供)

宇野昌磨さん、本田真凜さんと撮影する鷹取吾一さん(本人提供)

「やっていて良かった」最後に込み上げた達成感

「ダメダメな競技人生でした」

鷹取は何度もそう口にしたが、全てが絶望だったわけではない。

大学4年生だった2011―12年シーズン。

西日本学生選手権と日本学生氷上選手権で舞った4分間のフリー。自分自身で振り付けをしたマイケル・ジャクソンのメドレーは、「楽しい」という感情を沸き上がらせてくれた。

時期を同じくして、バッジテストで7級も取得した。ブロック大会のエントリーには間に合わなかったが、胸には達成感が込み上げた。

「結果的に全日本選手権に1度も出ることができなくて、今振り返っても、出たかったなと思います。でも時間をかけながら、何とか7級を取ることができて。自分の中では『これで終われる』と思いました。終わりが見えた瞬間でした」

小学5年生から始めたスケート。

何度もケガや病気に苦しんだが、競技人生の最後には光が見えた。

「人生の区切りって、大事だと思うんです。今振り返ると、ケガを理由に辞めなくて良かったなと思います。ダメダメでしたけど、最終的に『やっていて良かった』と思えたことは大きかったです」

スケートをやっていて良かった―。

最後の最後に抱いた思いは、その後の人生の道標となった。

昼夜問わず選手のもとへ、一心不乱に働いた20代

大学4年生で競技生活にひと区切りをつけると、卒業後も拠点としていた岡山国際スケートリンクで働くことになった。

昼夜問わず、選手のもとへ駆けつけるようにもなった。

島田高志郎がジュニア時代だったころ。

夜中の0時に電話がかかってきたことがあった。

「今、海外遠征から帰ってきたんですが、これから見ていただけますか?」

話を聞けば、翌朝には愛媛のアイスショーに出演するために移動しなければならないという。夜が明けるまでのわずかな時間で、靴の調整を頼まれたのだ。

「ちょうどステファン(・ランビエール)のもとへ行く前くらいですね。夜中に電話がかかってきて。『え、寝ないで行くの?』と言いながら、調整していましたね」

島田高志郎と撮影する鷹取吾一さん(本人提供)

島田高志郎と撮影する鷹取吾一さん(本人提供)

要望があれば、堪(たふ)る限りの力を尽くした。

靴の調整だけでなく、製氷や団体指導にも精を出した。ある時には36時間連続で働いたこともある。

それが使命だと思った。

「選手にとってみれば、目の前の演技や大会がすごく大切だったりもするので、できる限りのことはしていました」

一心不乱に20代を駆け抜けた。

次第に研磨職人の道を極めたい思いが強まっていった。

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。