私は、前回のコラムで「スポーツの指導に暴力を持ち込んではいけない」と主張した。鉄拳制裁で私を育てたおやじを反面教師にして、私の指導哲学が形成されたからだ。ここでおやじの名誉のために言っておきたい。おやじには優しい一面があったから、私はおやじの暴力に耐えられた。でもやはり、優しさで暴力は包めないし、許されない行為であることは間違いない。

国士舘大学大澤英雄理事長
国士舘大学大澤英雄理事長

小学生の時、おやじは脳血管系の病気で急死した。おやじの暴力から解放され、子供心に「あ-、良かった」と思ったが、一度だけ「おやじがいれば…」と思ったことがある。大学を卒業する前、友達と進路の話をした際に「家に帰っておやじに相談しよう」と言われた時だ。「あ、オレには相談できるおやじがいないんだ」。どんな親、指導者も子供や弟子の立場からだと、心のよりどころである。結局、自分の判断で指導者の道を選んだ。

暴力-。ここで告白したい。指導者の道を歩んで60年。その間、数え切れないほどの学生を指導した。その間、実は3度教え子に手を出したことがある。いずれも30~50年以上も前の話だが、今でも鮮明に覚えているし、消したい暗い過去でもある。

1970年代の話。当時、国士舘大サッカー部は夏休みに北海道や東北に遠征していた。遠征費は部費だけでは足りず、現地出身のOBたちがお金を集めて助けてくれた。室蘭遠征時、地元大学と練習試合があった。当時、関東とでは実力に差があり、募金してくれた地元OBたちは「関東のサッカーを我々の町にも伝えてほしい」という気持ちがあった。

試合には勝ったが、一方的な展開ではなかった。実力差があり、遠征の疲れもあったのだろう。手を抜く選手がいた。試合後、グラウンドで円陣を組んだ時「負けなきゃいいだろう」との声が聞こえた。A君だった。若かった私は一瞬カッとなった。「こっちに来い」。ビンタを見舞った。

2例目。金沢遠征で金沢西高校との練習試合で、集中力を欠いて実力が出せない学生B君がいた。反省がなく、周りにも悪影響が及んだと判断し、試合後のミーティングで顔を殴った。私は大学時代の冬休みに、東京・恵比寿のジムで、ボクシングを習っていた。ボクシングを教わった人がグーで人を殴ることは許されないが、その時も一瞬、頭に血が上った。

3例目は、福島県出身のC君。70年代入学で、今でこそ国士舘大は人工芝のきれいなグラウンドで練習しているが、当時は野球部練習場の一角での練習で、ボールを大きく蹴ることが許されなかった。「近所迷惑になるから道路側にボールを蹴らない」が当時、サッカー部の約束事。しかしある日C君は、何か気に入らないことがあったのか、それに反発するように何度か、わざと道路側へ大きくボールを蹴った。ルールを無視する行為が許せず、2発殴ってしまった。

学生に暴力を振るった夜は、すごく気分が悪く眠れない。自分がイヤになるし、おやじを思い出すこともある。指導者の自分が一番冷静でないといけないのに、興奮してしまうとは最悪だ。そういう教えしかできない自分がイヤになる。

「謝りたい」。長年ずっとその気持ちを持っていた。10年前、ようやく実行に移した。A君とB君に会いに行き「あのときは殴って本当に悪かった。許してくれ」と頭を下げた。A君からは「いい思い出ですよ。むしろ感謝しています」と返された。B君からは「えっ、そんなことありましたっけ? 全然覚えてないです」。2人は過去の暴力行為を許してくれた。本当に申し訳ないことをしたと思っている。

しかしC君にはいまだに会えていない。当時の同級生たちに聞いても居場所も連絡先も分からない。郡山西工業高校出身のC君にぜひ直接会って謝りたいと思っている。40年以上も前のことだが、まだ私の胸の奥には、当時のイヤな思いが残っているし、C君も思っているだろう。私が死ぬ前にぜひ1度C君に会いたい。深く頭を下げて直接謝りたいと、切に思っている。(大澤英雄=学校法人国士舘理事長)