100万人に1人という希少がん「骨肉腫」を乗り越え、柴田晋太朗さんが新たな夢に向かって突き進んでいる。

北海道オープンで総合10位、ジュニア部門優勝に輝き、賞状を受け取る柴田晋太朗さん(左)
北海道オープンで総合10位、ジュニア部門優勝に輝き、賞状を受け取る柴田晋太朗さん(左)

■17歳で骨肉種を発症

神奈川・日大藤沢高のサッカー部員だった2年の夏に骨肉腫を患い、3年がたった。その間、患部の右肩の手術に始まり、転移したがん細胞を取り除くため、肺を2度にわたり切除。20歳を迎え、プロサッカー選手になるという夢に終止符を打った。

「片方の肺を取っても、まだできると思って努力してきたんですけど、4月にやった肺の2回目の手術で現役生活が遠のいてしまったなと。試合中に倒れて危険な状況に陥るかもしれないし、そうなると完全燃焼できない。サッカーに対して失礼ですし中途半端になってしまう。これが1番悔しいのでいったん退かなければいけないなと。迷っていた中で、フットゴルフに出会いました」

柴田さんは、今春から地元厚木市に誕生したサッカーのクラブチーム「はやぶさイレブン」のアンバサダーを務めることになった。チームの監督を務めるのは阿部敏之さん。正確無比な左足から繰り出すパスを武器に浦和レッズ、鹿島アントラーズで活躍し、日本代表候補にもなった名選手だ。その阿部さんはフットゴルフの日本代表選手として、2018年ワールドカップ(W杯)モロッコ大会に出場した経歴の持ち主。手術治療を終え、5月にチームスタッフらで懇親も兼ねてフットゴルフに出掛けた。そこで柴田さんは、いきなり阿部さんのスコアを上回ったという。マリノス育ちで神奈川県高校選抜の主将も務めた「日藤のファンタジスタ」、そのサッカーの腕前が生きた。

「これだったら(右肩の手術で)右腕が上がらなかったり、体が不自由でも世界を目指して戦えるんじゃないかなと思って。自分の特長であるキックや持ち味の集中力も生かせる。そして走る体力を使わなくてもいい。これは今の自分にとって1番適しているスポーツだと思って、決断しました」

柴田晋太朗さんのパッティング
柴田晋太朗さんのパッティング

■日本協会14年に誕生

フットゴルフの歴史はまだ浅い。2009年に国際フットゴルフ連盟(FIFG)が創設され、遅れること5年、日本協会が14年に誕生した。競技はゴルフ場を使用し、その名の通り足でサッカーボールの5号球を蹴って、カップインする打数を競うもの。各コースの半分ほどの距離で18ホールを回る。グリーンは使わず、手前に穴が設けられる。飛距離、正確なキックはもちろんだが、何よりコースの形状を知り、どう攻めるか。知力とメンタルの要素が大きいという。

欧米では人気が高く、最強国と名高いアルゼンチンには、サッカー元W杯代表主将だったアジャラが活躍する。日本でも17年時の競技人口は1万人と言われたが、近年は元Jリーガーが挑戦するなど急激な広がりを見せている。7月にはJ2の岐阜FCがフットゴルフクラブを創設。そして来年10月にはW杯日本大会の開催まで決まった。

そんなフットゴルフは現在、19年ジャパンツアーの真っただ中だ。柴田さんはシーズン途中から選手登録を済ませ、6月29日の長野・軽井沢オープン(グレード=G、50)から阿部さんと一緒に参戦。この軽井沢では散々の出来だったため「サッカーを全力でやって高みを目指していたころのような努力の仕方でやろうと」。元来の負けず嫌いに火がついた。毎日のように走り、体幹運動を行った。その努力が結実する。

8月17日の群馬・美野原オープン(G50)では総合7位、続く日本代表クラスが集まった8月25日の北海道オープン(G100)では、2アンダーで40人中総合10位(ジュニア部門で優勝)と大躍進し、11月3日のジャパンツアーファイナルへの出場権を手にした。ここで上位に入れば、来年のW杯代表入りが現実味を帯びてくる。

「病気が落ち着いてきたのが良かった。闘病中だとトレーニングを始めてもまた治療があるので、意味をなさない。休んじゃうのでモチベーションにつなげられなかった。でも今は経過観察だけでよくなったので、しっかり地に足をつけ自分の目標を掲げ、まっすぐ進める。本当に良かった」

羽中田昌さん(右)と握手する柴田さん
羽中田昌さん(右)と握手する柴田さん

■羽中田昌さんとの出会い

この夏、大きな出会いがあった。車いすのサッカー監督で知られる羽中田昌さんに会い、その生き様に触れた。羽中田さんは山梨・韮崎高時代(1980~82年度)に全国大会で活躍した名選手だったが、高校卒業後の交通事故で半身不随となり、サッカー選手という夢を断念した。だがサッカーへの情熱を失わず、スペイン・バルセロナへのコーチ修業を経て帰国し、車いすというハンディを物ともせず、障がい者としては初めてS級指導者ライセンスを取得した人物である。

夏真っ盛りの8月上旬、山梨・韮崎市の自宅を訪問した。解説者でもある羽中田さんを相手に、大好きな欧州サッカーの話題で盛り上がった。うち解けてくると、少しずつ自身の闘病生活を振り返り、自らの考えや胸にしまい込んでいた思いをぽつり、ぽつりと言葉にした。静かに話を聞いていた羽中田さんが、おもむろにつぶやいた。

「もっとサッカーやりたかったよな…」

「やりたかったです」

サッカーに情熱を注いだ2人の思いが交錯した瞬間だった。

今年から通い出した大学のこと、熱中しているフットゴルフのことも話した。語らいは3時間に及んだ。気が付けば、外には雷鳴が響き、激しい夕立に包まれていた。

「自分を戒めるための、いい時間になったと思います。病気になったことで、病気を軸に考えがちになっていたので。病気だからとか、難病だからとか、そこにとらわれないで自分のやりたいことをやっていく。集中して、そこを軸にしてやっていけば、病気だからだとか思わなくても、前向いて行動できるんじゃないかなと感じました。これからの人生、病気を軸に進んでいく必要はないと思いました。自分のやりたいことを軸にして、カッコで病気もあるくらいの感覚でやっていけば全然問題ないんじゃないかな。羽中田さんに会ったことで、あらためてそう思えました」

柴田さんは生涯、病気と闘っていくと決意する。がんは国民病と言われ、治療薬の研究はどんどん進む。だが、国民病とは程遠い「希少性」ゆえに後回しにされているのが実情だ。そんな環境を変えるべく病気のことを知ってもらおうと、理学療法士の飯沼亮介さんと組んで高校の授業、大学の学園祭など幅広く講演活動を展開している。

柴田晋太郎さんが行う講演会のポスター
柴田晋太郎さんが行う講演会のポスター

■「希望の光になりたい」

9月16日には川崎市のライフイノベーションセンターで、元Jリーガーで大宮アルディージャのアンバサダーを務める塚本泰史さん、元アメリカンフットボール日本代表の大森優斗さんとともに講演会を開く(問い合わせ=chonmg55@gmail.com)。その2人も骨肉腫を患い、競技を断念したアスリートである。

「無理だよとか、難しいんじゃないって言われていることを可能にしていくのが自分の役目であり、自分の長所だと思っています。自分の背中を見て、みんなが前向きになってくれるような、そんな人間になりたい。そのためには努力が必要ですし、それをやっていきたいと心から強く思っています。何かハンディを背負うとあきらめがちなんですけど、そこで一歩踏ん張ってみて、自分に負けない強さを磨けば絶対に何でもできると思う。それを自分が示して、みんなの希望の光になれたらと思います」

そこまで自らを追い込む裏には、夢を持ちながら亡くなっていた闘病仲間たちの存在がある。この夏にもまた1人、「パラリンピックの選手になる」と語っていた「マサ君」が亡くなった。生きられなかった友の分まで自分は生きる、そう強く心に刻む。

だから言う。

「2024年(パリ大会)は漏れましたけど、フットゴルフはおそらく2028年(開催地未定)にはオリンピックの種目になると思うので。病気になった自分がパラリンピックでなく、正規の方で日本を背負って世界と戦うことができる。それを考えるだけでも鳥肌が立ちます。本当に小さい頃から代表になって世界で戦うのが夢なんで」

W杯とオリンピック出場という大きな夢。そんな飽くなき目標をかなえるためには、ツアーを転戦する資金が必要になる。そこでクラウドファウンディングを利用し、自らの夢を応援してくれる人も募るという。

「自分が病気を克服してたくましく進んでいる姿を見せるのも大事なんですけど、これからのフットゴルフの普及に努めていくのも僕の役割。フットゴルフの良さを伝えてもっといろんな人が始めて、代表を通して切磋琢磨(せっさたくま)できる環境を作りだしたいと思っています」

輝くような笑顔で、新たな未来を紡ぎ出した二十歳。思わず、こちらのほおも緩んだ。【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)

フットゴルフの第1打を前に見る光景
フットゴルフの第1打を前に見る光景