JRと新幹線を乗り継ぎ約2時間。千葉の舞浜駅から、群馬の上毛高原駅まで。アジア杯での戦いを終えたオシムさんは1人、電車に揺られながらやってきたという。

群馬・昭和村を拠点に活動する、ジュニアユースサッカーチーム「FC KRILO(クリロ)」。ボスニア語で「翼」を意味するこのチーム名は、元日本代表監督のイビチャ・オシムさんが名付け親だ。

同チームの代表・藤井吉治さん(65)とオシムさんの出会いは、約15年前の07年8月。昭和村に作られたスポーツ総合施設「千年の森スポーツセンター J-Wings」のオープン記念イベントだった。

藤井さんは、サッカーなどを通じたスポーツ文化の振興や普及活動を行ってきた。そこで、オシムさんの故郷サラエボでサッカークラブを立ち上げた知人を介して、来てもらえないかと依頼。ボスニア・ヘルツェゴビナの文化を理解するイベントも同時に行う予定だった。

日本代表監督としての公式行事ではない“ボランティア”だが、オシムさんは快諾。サッカーへの熱い思い、故郷への深い愛があった。

イベントの午前中は、子どもたちによるオシムさんへの質問会が行われ、サッカー少年や少女が約150人集まった。「リフティングは、サッカーがうまくなる上で必要なものではない」。オシムさんは、独自の考えを惜しみなく話した。代表監督の厳しい表情とは違う、柔らかい笑みを浮かべて。夜は講演会を実施。参加費として集まった計80万円を、サラエボへの寄付金にした。

雄大な山に囲まれ、ブルーベリーが実る昭和村の光景。「ボスニア・ヘルツェゴビナに似ている」。オシムさんは故郷に重ねていたという。生い茂るこんにゃく芋の葉を見て「これは何の植物だ?」とたずね、うどんを好んで食べた。気さくな人柄だった。

その日から約3カ月後、オシムさんは突然の病に倒れた。一命を取り留め、リハビリができるほどに回復した後、藤井さんはお見舞いに訪れた。子どもたちからの寄せ書きと、オシムさんの名前を入れた名産のだるまを持って行くと、起き上がって喜んでくれたという。

オシムさんが離日した後も交流は続いた。「FC KRILO」が出来たのは10年3月。チームの命名をお願いすると、翼を意味する名前をくれた。活動拠点の「J-Wings」になぞらえ、そして「世界、夢に向かって羽ばたく翼」という意味が込められている。

東日本大震災が起きた11年。福島・双葉町のサッカーチームを招いて交流会を行うと、オシムさんはサラエボからテレビ電話をつなぎ、子どもたちの質問に答えてくれた。「くじけるんじゃないぞ」。困難に立ち向かう子どもたちへ、優しく背中を押した。

日本のサッカー界を変えた名将は、さまざまな場所へ足跡を残し、たくさんの人に思い出を残していた。貴重なその全てが、未来への財産だ。【磯綾乃】