きっと、松田直樹さんも、6月の日本-ブラジル戦(国立)を見に来ていたはず-。

8月4日はサッカー元日本代表DF松田直樹さんの命日。今年は松田さんもたくましく戦った、ワールドカップ(W杯)日韓大会から20年の節目。当時のメンバー、レジェンドが集結した今年6月6日、ブラジル戦のあの日の裏話とともに、中心メンバーだった天国の松田さんへの思いを、お届けします。

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8月4日は松田直樹の命日である。2011年、34歳だった時に練習中に倒れ、もう11年がたった。生きていれば6月6日の日本代表のブラジル戦(国立)には、02年W杯メンバーの一員として、喜んで会場に駆けつけ、みんなを盛り上げたのだろう-。

6月6日、日本はFIFAランキング1位の王国を国立に招き強化試合を行った。ネイマールの華麗な個人技が記憶に新しい。その中で、テレビ前のファンを驚かせたのは、メインスタンドで中田英寿と小野伸二が並んで観戦した場面ではないだろうか。

この天才2人は、06年W杯ドイツ大会前に戦術的な見解の違いから不仲説がうわさされたこともある。その2人が並ぶ姿は異例で、さらに中田英は引退後、代表の試合をスタジアムで観戦したことは、ほとんどないともいわれる。なぜ、あの2ショットが実現したのか。

日本協会はブラジル戦の約1カ月前、02年W杯日韓大会20周年を記念し、当時のメンバーを国立に招待することを決めた。会長の田嶋幸三の発案で、当時の代表チームマネジャーが選手1人1人に連絡を取った。その前に、まずはトルシエ。田嶋が電話をかけ、快諾を得た。その後、自らパリに出向き、ブラジル戦の10日前にトルシエと通訳だったダバディと2時間以上話をして、来日を最終決定させた。

そして選手。マネジャーだった山下恵太が、メンバーに連絡を取った。小野のようにまだ現役の選手、Jクラブの指導者となり練習日程と重なる人、海外にいる人らもいて、全員を集めるのは難しかった。加えて、「マツ(松田)だけは、連絡できなかった。寂しかったですね」。その中で、10人は1週間以内に「参加」との返答が来て、招待券と希望者には駐車券も発送した。

しかし、中田英からはまったく返事がない。最初の連絡で「行けたら行くよ」と言っただけ。山下は、とりあえずわずかな可能性を信じてチケットと駐車券を送った。結局、なんの連絡もなしに試合当日、中田英がひょっこり現れた。他の選手からは「オ、オーッ」と、驚く声が上がったという。その後は「最近何してるの?」など、談笑が1時間以上続いた。

トルシエと、国立に来た選手11人は、会場内の一室でスポンサーを交えたパーティーや、日韓大会20周年記念行事に参加。そのままスタンドで観戦した。席順はあらかじめ、日本協会が決めていた。本来、満員のサポーターの前で、試合前にあいさつするプランもあったが、試合に向けて集中している現役選手たちを気遣い、取りやめた。

代わりに、中継局に「選手たちはメインスタンドに座る。試合中にカメラに収めてください。絵になるように並べるから」とお願いした。それがあの夢の2ショットの映像となった。

もう見られないかもしれない貴重な映像は、こうして生まれた。もちろん雲の上では、松田もかつての仲間、そして代表の後輩たちを見守ってほほ笑んでいたに違いない。(敬称略)【盧載鎭】

日本代表のユニホームを着た松田直樹さん=96年7月
日本代表のユニホームを着た松田直樹さん=96年7月
02年3月、国際親善試合ポーランド戦に臨む日本代表先発メンバー。前列左から稲本、小野、市川、中田、宮本、後列左から高原、中田、松田、戸田、鈴木、川口
02年3月、国際親善試合ポーランド戦に臨む日本代表先発メンバー。前列左から稲本、小野、市川、中田、宮本、後列左から高原、中田、松田、戸田、鈴木、川口