DF板倉滉(25=ボルシアMG)が二人三脚で初の大舞台に挑む。

マネジメントを務めるのは、小学生時代からの幼なじみで同級生の藤川誠人氏(25)。V川崎(現東京V)で活躍したGKの故藤川孝幸さん(享年56)の三男でもある。9月に右膝内側側副靱帯(じんたい)を部分断裂し、W杯出場が懸念されたが、藤川氏のサポートもあり、驚異的な回復で本番に間に合わせた。

「膝やっちゃったわ」。板倉のけがは本人からのメールで知った。いつもの絵文字はない。文面からただならぬ雰囲気を感じ取った。藤川氏が「どんな感じなの?」と返すと「MRIを取るまでは分からない」。2人の間に緊張が走っていた。その1時間後「全治6~7週」の診断結果が出た。藤川氏はすぐに板倉に電話をかけた。「電話で話しましたが、普段と何も変わらずケロリとしていた。“やるしかない、間に合わせるしかない”と彼としてはすぐに、スイッチを切り替えていた」。

負傷して3日後、藤川氏はドイツへ渡った。松葉づえを使用し、歩くのもままならない状況だった。一瞬、心配したが、リハビリをする姿を見た瞬間「大丈夫。間に合う」と確信した。

藤川氏 「9月で日本代表チームもデュッセルドルフに来ていて、トレーナーの方もいてくれた。多いときは朝、昼とクラブで、夜に協会の方々とリハビリをしていた。ちょっとずつ、どこまで曲げられるかの確認をして。他の部分も鍛えて。オフなく続けている。パワーがすごい、人生かけてるんだなと感じました」。1週間後、板倉は松葉づえなしで歩けるようになっていた。

藤川氏は1度、日本に帰国し、1カ月半後、日本代表発表の11月1日に合わせて再び渡欧。板倉は、既に練習に部分合流し、対人練習やロングボールも蹴るほどになっていた。代表発表は朝5時半に起きて一緒に見た。名前が呼ばれた瞬間、板倉は淡々としていたが、藤川さんは力強くガッツポーズをつくっていた。

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2人の出会いは、小学3年にさかのぼる。横浜市の町クラブのあざみ野FCで出会った。「(板倉は)前線の選手で、背はそんなに高くなかった。足元がうまくて、ドリブルで人を抜いて得点を量産するタイプだった記憶がある」。板倉は小学4年で川崎Fのジュニアチームへ移った。父と同じGKだった藤川氏はJクラブの下部組織のセレクションを受けたがすべて落選。最後まであざみ野FCでプレーした。

中学では、板倉は川崎フロンターレのジュニアユース、藤川氏は下部組織のセレクションに落ち、中学1年は部活でサッカーを続けた。地域の有望な選手を育成する「トレセン」に選ばれたことを機に、中学2年から横浜FC鶴見ジュニアユースへ加入した。

高校時代は板倉は川崎Fのユース、藤川氏は桐蔭学園でプレー。小、中、高校時代は特に仲が良かったわけではない。年に1度、公式戦で対戦し、試合で顔を合わせ話す程度だった。2人の距離が縮まったのは、板倉がプロ1年目、藤川さんが慶大1年のころ。大学サッカーもJリーグも似た日程でオフが同じ日が多かった。休みになると、一緒に買い物や遊びに出かけるようになった。

2人の会話に、サッカーの話は出なかった。板倉が中学1年のころ、成長期が遅く試合に出られない日々が続き、コーチに「サッカーを辞めます」と1度だけ言いに行ったことも、マネジメント後にインタビューで知った。川崎Fで出場機会に恵まれなかったころ、先輩FWの大久保嘉人がよく自宅へ食事に招き、話しながら励ましてくれた。練習試合で熱くなり、相手にファウルをして先輩に怒られた時は、MF家長昭博が「(アスリートの)体に悪いもんでも食べにいくか」と板倉を誘ってラーメンを食べに行ったこともある。すべて、マネジメント後に知ったことだ。

藤川氏は言う。「滉から愚痴を聞いたことがない。逆に、僕が気になって、フロンターレの練習ってどんな感じ? と聞いたり。プライベートではたわいもない話ばかり。お互いにフラリと、当日、誘い合って行く感覚だった」。

藤川氏もプロを目指していた。慶大時代まで「GK藤川孝幸の息子」と言われるのが嫌だった。どんなにいいプレーをしても、メディアに取り上げられる際、必ず見出しに父の名が大きく出る。大学4年で当時J2の横浜FC、相模原に練習参加した。相模原ではGK川口能活が「あれだけ熱い人間は君のお父さんだけだったよ」、横浜FCではカズが「一緒に頑張ろうな」と声をかけてくれた。父の偉大さを体感することになったが、J2以上のオファーがなく断念。就職活動で大手商社から内定を取った。

父孝幸さんは他界する4年前から、スポーツビジネスの仕事に携わっていた。「正直、スポーツ業界で稼ぐことは難しい。入らない方がいい」とアドバイスされていた。藤川氏が大学4年の11月15日、父孝幸さんは胃がんで死去。お別れ会には約600人が参列し都並敏史氏が弔辞を読んだ。「これだけすごい人たちと仕事をしてたんだな」。次なる目標として「すべての意味合いで父を超える」と心に誓った。

社会人1年目になり、板倉から「マネジメントをやってくれないか」との依頼を受けた。1カ月間、下調べをして、すぐに「やる」と決断した。商社は7カ月で辞め会社を立ち上げた。

膝のリハビリ中、板倉のある言葉が印象に残っている。「W杯最終予選で今まで感じたことがない緊張感があった。今までの代表活動は、代表に定着するために自分のパフォーマンスを考えていた。でも、最終予選で自分のパフォーマンスよりも日本が勝つためだけにプレーをする、チームが勝っていればいいという感覚になれた。その感覚を感じたのは初めて。W杯はもっとすごいことになる」。 藤川さんは言う。「本人の熱さはリハビリでも出ていた。姿勢、意識的な部分でプロだなと」。これから、板倉の将来の道にレールを引くのが藤川氏の役目だ。「日本代表の選手で、世の人々から板倉滉が一番最初に出るぐらいにしないといけない。これが僕の仕事」。幼なじみ2人の二人三脚は、始まったばかりだ。

◆板倉滉(いたくら・こう)1997年(平9)1月27日、横浜市生まれ。川崎Fの下部組織で育ち、15年にトップに昇格。18年に仙台に期限付き移籍し、主力として活躍。19年1月にマンチェスター・シティーに完全移籍も同クラブからフローニンゲン、シャルケに期限付き移籍。今年7月、ブンデスリーガのボルシアMGに加入。センターバックとボランチをこなす。日本代表では国際Aマッチ12試合1得点。東京五輪代表。186センチ、75キロ。