長い夢から、ようやく覚めたような瞬間だった。時計の針が0時を過ぎ、日本時間27日を迎えた頃。横浜の松永成立GKコーチ(53)は、沖縄県内の宿舎の自室でまどろんでいた。

 船をこぐ寝顔が、揺れるテレビの光に照らされる。画面にはU-23(23歳以下)日本代表が、リオデジャネイロ五輪の出場権を懸け、イラク代表と戦う様子が映し出されていた。

 合宿中のチームは連日2部練習。松永コーチは誰よりも早くピッチに現れ、若手GKの居残り練習まで付き合い、最後にピッチを後にする。

 9年前の就任当時から、変わらぬ熱血指導。その疲労に勝てず、テレビ観戦しながら、いつしか眠りに落ちていた。

 その瞬間は、唐突に訪れた。大歓声とアナウンサーの絶叫で、松永コーチは目を覚ました。画面を見やると、ゴールを決めた原川が、チームメートにもみくちゃにされていた。

 解説の中山雅史が、ドーハの悲劇を回顧し、感極まっている。そうか、後半ロスタイムというのも、あの時と同じか-。松永もひとり、感慨にふけった。

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 翌朝。チームの午前練習のピッチに、やはり最後まで残っていた松永コーチは、宿舎に戻る乗用車の前で取材に応じた。

 「五輪に出ないといけないという重圧に、反骨心が勝ったように見えた。世界大会に出られずに来た世代だと言われ続けて、なにくそと頑張ったのではないか。毎試合見ていたけど、勝ち続けたのは勢いじゃなく、チームの成長があってこそ。世間の評価を覆すような結果を出せたのは、日本サッカーにとっても大きなことだし、素晴らしいことだと心を打たれた」。

 世間の評価との戦い。あの時は逆の立場だったと、松永はドーハの悲劇当時を振り返りだした。

 「ちょっと前まで観客もほとんどいないような日本リーグ時代だったのに、急に日本代表がアジア杯で優勝して、W杯もいけるぞという雰囲気になった。サッカーの見られ方が深まるスピードが追いつかないくらいに、サッカーを見るファン層が爆発的に広がった。立ち上がったばかりのJリーグの成功のためにも、結果が必要だった。実情を超えて高まる期待に、どうにかして応えるしかない状況になっていた」。

 期待が重圧に変わり、選手たちをさいなんでいたと、松永コーチは言う。

 「肉体的にはボロボロ。それでも何とか最終戦まで出場の可能性を残して、あと1歩でW杯というところまでいった。今考えても、よくあそこまでいったと思う。必死で走るフィールドプレーヤーの背中を見ながら、GKとして何とか失点を食い止めたいと考えていました」。

 イラク戦は1点リードで終盤へ。このまま勝てば、初のW杯出場だ。しかし、悪夢の瞬間はやってきた。

 後半ロスタイム。ショートコーナーで揺さぶってきたイラク代表に、同点を許した。再開直後、試合終了の笛が鳴った。W杯出場の夢は絶たれた。

 「張り詰めていた糸が切れるとは、まさにあのようなことを言うのだと思う。目の前で世界への扉を閉じられた。過酷な道のりを超えて、目の前までたどり着いていたからこそ、ダメージは大きかった」。

 それでも松永は、求められれば取材に応じ、悪夢の瞬間について語ってきた。向き合わなければ、前に進めない。そう自分に言い聞かせていた。

 だが本当は、「その年は悪夢を振り返るだけではなく、サッカー自体もやりたくないと思っていた」のだという。

 少しずつ、記憶と自然に向き合えるようになったのは、日本サッカーが着実な歩みを始めたと実感できるようになってからだ。

 「ラモスさんは『神様がまだ早いと言っている』とコメントしていたけど、確かにそうだった。日本は数段飛ばしでW杯に迫っていったけど、ドーハの悲劇をきっかけに、やはり若手の育成からきちんとやらないといけないという機運が高まった。きちんとした育成組織。指導者ライセンス制度。いろんなものが整備されて、日本は本当の意味で強くなることができた」。

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 「黄金世代」「プラチナ世代」など、有望株がまとめて育つ年代も現れだした。欧州でプレーする選手も珍しくなくなった。今や日本代表は、W杯本大会の常連になった。

 だから「世界を知らない世代」として、手倉森ジャパンが逆の意味で目立つことにもなった。その世代が無敗のまま五輪出場を決めた。松永コーチは「これは大きいこと」と強調する。

 松永コーチらの無念をムダにせず、日本サッカーは真の「底上げ」を果たした。それがくしくも、あの悲劇の舞台だったドーハで証明された。しかも同じロスタイムに、93年生まれの原川が決勝点を挙げた。

 「何かの縁は感じますよね。1人のプロアスリートとして、あの日負けたからよかったとは、やっぱり言えない。でも、日本が強くなるための1つのステップだったのかなとは思う」。

 23年がたった。あの夜、まどろむ松永コーチを揺り起こしたのは、悲劇の記憶ではなかった。テレビから聞こえる歓喜の声に、少しだけ報われた気がした。

 ◆ドーハの悲劇 93年10月28日、日本はカタール・ドーハで、94年W杯米国大会最終予選の最終戦イラク戦に臨んだ。勝てば初のW杯出場が決まる一戦は、日本がFWカズと中山の得点で2-1とリードし終盤へ。日本がイラクにCKを与えた直後、後半ロスタイムに突入した。

 イラクはショートコーナーからのクロスに、オムラムが頭を合わせた。ボールはGK松永の頭上を越えて、日本のゴールに吸い込また。試合はそのまま2-2で終了。日本は韓国と2勝2分け1敗で並んだが、得失点差で3位となり、2位以上に与えられるW杯切符を逃した。