新型コロナウイルス感染拡大の影響で、国内外のサッカーリーグ、代表の国際試合は中断、中止を余儀なくされている。

生のサッカーの醍醐味(だいごみ)が伝えられない中、日刊スポーツでは「マイメモリーズ」と題し、歴史的な一戦から、ふとした場面に至るまで、各担当記者が立ち会った印象的な瞬間を紹介する。

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鳴り響く警報器、はがれ落ちる天井の壁と電球、身を寄せ合って悲鳴をあげる女性スタッフ。

11年3月11日午後2時46分、私は茨城・鹿嶋市の鹿島アントラーズのクラブハウス内で東日本大震災と遭遇した。最初に強い揺れが起き、その後弱い揺れが続いた。時間にすれば約2分程度。だが、ものすごく長い時間に感じ、「このまま揺れが収まらないのでは」と鈍感な私でも恐怖感を覚えた

チームは翌12日のアウェー清水エスパルス戦に向けてすでにバスで移動しており、選手は不在だった。クラブスタッフは「こんな状況は初めて。とにかく、ここにいては危険。社員は帰宅させます」と緊急避難命令を出した。ただごとではない事態。電球の破片や崩れた壁が散乱するクラブハウス、水道管が破裂し水があふれ出しているユースグラウンド、亀裂が入った道路、近隣の工場から噴き上がる黒煙。手持ちのカメラで必死に撮りまくった。

このとき、1万5000人を超す犠牲者を出す未曽有の津波が東北地方を襲うことなど、知るよしもなかった。福島第1原発事故による放射能漏れで、避難せざるを得なくなった周辺住民は4万7737人(昨年9月時点)…

当時ルーキーで遠征メンバーに帯同していなかった元日本代表DF昌子源(27=ガンバ大阪)は鹿嶋市内の自宅で昼寝していたところ、大きな震動で目を覚ましたという。「兵庫に住んでいた3歳のころに阪神大震災を経験した。あのときは自宅のタンスが倒れてきたのをうっすら記憶している。それ以来の衝撃だった」と振り返っている。

震災後、Jリーグは約1カ月間中断した。プロスポーツは非日常を提供し、夢や感動を与える。だが、日常が非日常化した際、その基盤がいかに脆弱(ぜいじゃく)かを思い知った。あの年、被災地の復興支援活動を始めた元鹿島MF小笠原満男氏は「被災者の方々にこちらが励まされる。ぼくらはプレーで恩返しすることしかできない」と、よく口にしていた。7月、なでしこジャパンが世界一に輝いた。そして10月、鹿島は「復興」を合言葉にナビスコ杯(現ルヴァン杯)で優勝を飾った。

今、世界中が未知のウイルスへの対応に追われ、収束はいつになるかわからない。人類がこの困難を克服したとき、アスリートたちの躍動はさまざまな思いと感動を私たちに与えてくれるだろう。そのときが一刻も早く訪れることを願ってやまない。【塩谷正人】