Jリーグは15日、新型コロナウイルス感染拡大を受け、初めて中断期間下で開幕記念日を迎える。93年5月15日から27年。横浜Mとの開幕戦で第1号ゴールを決めたV川崎のFWヘニー・マイヤー氏(58=オランダ)が取材に応じ、J再開を願った。53歳でJ1復帰の日を待つ横浜FCのカズや、来夏へ延期された東京五輪世代のPSV堂安らJ出身オランダ1部リーグ勢にエールを送った。【取材=エリーヌ・スウェーブルス通信員、構成=木下淳】

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27年前の夜、Jリーグ初ゴールは生まれた。前半19分、旧国立競技場のペナルティーエリア左角。マイヤー氏はDFを強引にかわすと、視界が開けた瞬間に右足を振った。ゴールマウス右上へ一直線。当時流行したチアホーンの音を一身に浴びながら、両手を広げてピッチを駆けた。「喜び過ぎて会場から飛び出しちゃうかと思ったよ」。今年は、以来初となるリーグ中断中。あの熱狂が戻ってほしい-。例年以上に第1号のシーンが注目されている。

「この世から僕が去っても、初得点は永遠に生き続ける」。当時31歳。「アキレス腱(けん)を痛めていて、フルで練習してないのに使われた試合」で一生の思い出ができた。来日して初の実戦が開幕戦。「え…先発!?」とスタメン起用に驚き「(松木)監督の指示も『You are a striker.You Score Goal(FWは点取ってね)』だけ」と、また驚いた記憶が鮮明に残る。

カズやラモス瑠偉ら日本のスターと、91年オランダ1部リーグMVPのマイヤー氏ら助っ人勢。個性が強すぎて衝突が絶えず、連係など皆無だった。開幕戦もパスがこない。ならば個で打開するしかない。「俺は点取り屋だ。ゴールが仕事」と開き直り、結果的に指示通りとなったことで、あの弾丸ミドルが生まれた。

翌週も得点したが、その1カ月半後…解雇。最長2年の契約で「違約金の支払いは丁重だったけど、選手としては尊重されなかった(笑い)。戦術面は当然、僕の方が日本の監督や選手より進んでいたから意見したけど、それが気にくわなかったんだろう。まあ、僕の生き方だからいいさ」。

98年に引退。現オランダ代表のクーマン監督とは指導者養成コースで同期だった。嘱望されたが、現場から離れる。離婚。2男3女を育てる専業主夫となり、10年間は選手年金だけで生活した。今は全国紙テレグラフの解説や育成年代の指導、慈善事業などを行う。

新型コロナ禍でオランダリーグは4月24日、欧州主要国で初の中止を決めた。「ロックダウン(都市封鎖)後はサッカーどころじゃなかったけど、ようやく恋しくなってきた」。喪失感を知るだけにJリーグ再開を心から願う。お目当てはカズ。「53歳…真の愛好家じゃなきゃ無理だよ」。27年前は「会話した覚えがない」が、17年の50歳ギネス弾は「もちろん見た」と答えるなど気にかけてきた。

58歳、体重が84キロから一時118キロまで増えたマイヤー氏も「フットサルをしてみた」。結果は「全身痛でマンション4階の自宅まで上がれなかった。カズの偉大さが分かった」と笑った。「レジェンドだからってチームの負担になってはいけないけど、彼の場合、そんなことはないだろうね」。お預けになったカズの13年ぶりJ1帰還が「楽しみだ。体が許す限り続けてほしい」と期待した。そのためにも、まず再開。自身のように、また時計の針を動かす一撃を待っている。

来夏に延期となった東京五輪の成功も祈った。条件は主力の成長。「解説業で僕の古巣フローニンゲン(板倉)やPSV(堂安)AZ(菅原)の選手はよく見るが、正直、現時点で目立つ選手はいない」と厳しく指摘。「フェイエノールトの小野伸二やVVVの本田圭佑は常に目立っていた。まずは彼らのような選手にならないと」と注文した。

 

◆ヘニー・マイヤー(Hennie Meijer)1962年2月17日、オランダ領ギアナ(現スリナム)の首都パラマリボ生まれ。オランダ国籍。83年に同国2部テルスターでデビュー。アヤックス時代の87年に代表入り(1試合無得点)。91年にフローニンゲンを過去最高の3位に導き、オランダ1部のMVPに輝いた。同国1、2部通算148得点。93年にV川崎入り。当時の年俸は推定4050万円で鹿島ジーコ氏の4100万円とほぼ同待遇も、11試合2得点で7月に退団。その後、オランダ1部カンブールへ移籍した。182センチ。