1964年(昭39)年10月10日、秋晴れのもと東京五輪が開幕した。大会前から日本中が注目したのは「東洋の魔女」女子バレーボールや柔道など。サッカー代表のコーチ岡野俊一郎は選手村で、男子バレーボール監督の松平康隆と笑えない話をした。「我々は刺し身のつまですね」。前売り券の売れ行きも芳しくなく、サッカーは不人気種目の1つだった。

だが4日後、小雨降る東京・駒沢競技場で、特別コーチに就任したデットマール・クラマーの息子たちが奇跡を起こした。1次リーグ初戦はプロ予備軍で編成されたアルゼンチンだった。1点を追う後半9分、FW杉山隆一が左サイドからのドリブル突破で同点ゴール。しかし、1-2と突き放され、残り10分を切ろうとしていた。

岡野 ベンチで隣に座っていたクラマーが「もうダメだ」と頭を抱えていた。

日本男児の見せ場はここからだった。36分、左サイドからFW釜本邦茂がクロスを上げ、走り込んだFW川淵三郎が頭でたたきつけたシュートは、ワンバウンドでゴール。さらに1分後にMF小城得達が押し込んで、ついに逆転した。残り数分、必死の守備でボールを蹴り出す選手たちにクラマーが叫んだ。「横浜まで蹴れ!」。3-2。日本がアルゼンチンに勝った。165センチほどの小さなドイツ人がベンチを飛び出し、教え子たちの歓喜の輪に包まれた。

ヘディングが苦手だった川淵は、徹底してヘッドの特訓をしていた。ペンデル(上からつり下げた)ボールで正確におでこに当てる技術を磨いていたのだ。

クラマー 日本の選手にヘディングの技術はまったくなかった。私はよく言ったものだ。サッカーは地上だけでプレーするものではないとね。

チーム全体も成長していた。62年12月に監督長沼健、コーチ岡野の体制に代わり、杉山ら若手の台頭も重なっていた。63年8月のムルデカ杯は開催国のマレーシアに初戦で勝ち、タイ、南ベトナムも連破。レセプションで、ラーマン首相(当時)が涙ながらに言った。「もう日本は弱いから招待するのをやめようという話もあった」。五輪前の欧州遠征の締めくくりで名門グラスホッパー(スイス)に4-0で快勝。地元紙からも称賛されるほど力をつけていた。

日本のD組は、イタリアがプロ選手を予選に出場させていたことが発覚して大会直前に失格となっていた。第2戦は、ガーナに逆転負けしたものの、3チームでの争いで1勝1敗ながら、日本は1次リーグを2位で通過。準々決勝は優勝候補チェコスロバキアに完敗したが、日本はベスト8という結果で開催国の面目を保った。

大阪府協会が誘致して開催されたユーゴスラビアとの5、6位決定予備戦(長居)は1-6の大敗。イビチャ・オシム(元日本代表監督)に2得点された。日本の1点は、釜本の大会初得点。若きエースは不完全燃焼に終わっていた。

釜本 自分の点はおまけみたいなものだった。転がって入っただけ。ヘタクソだから仕方がない。自分は三流以下だった。

この悔しさを原点に、後に「世界のカマモト」と呼ばれる男の猛練習が始まった。(つづく=敬称略)【西尾雅治】

釜本シュート!シュート!国内レベルから世界へ打ちまくった/クラマーの息子たち(7)>>