8月10日は、日本心臓財団が定める「健康ハートの日」。休むことなく、働き続ける心臓に感謝する日だ。

J2横浜FCのブラジル人FWサウロ・ミネイロ(25)は、3度の心臓手術を乗り越えてグラウンドに戻ってきた。人は奇跡の心臓と呼ぶ-。

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「タトゥーは好きじゃないんだよ」。サウロ・ミネイロは、そう言った。

サウロのようなブラジル人や、外国人選手の多くは腕や脚、体の多くに、信仰するものなどを刻む。見る限り、サウロの体は、何も刻まれていなかった。一部分を除いて。着ていた練習着を脱ぐと、左胸に小さなタトゥーがあった。「心電図」、「09-10-2020」、そして見慣れない文字。

「これは心電図と日付さ。言葉の意味は『ここまで、この日まで、神様が自分を助けて、支えてくれた』という内容。その日を忘れてはいけないと思って」。20年10月9日。刻んだ。

16歳の時に、不整脈が見つかった。当時はアマチュアのサッカー選手。自慢のスピードと強靱(きょうじん)なフィジカルを武器に得点を量産し、ブラジル国内のプロクラブから注目されていた。その中、見つかった心臓の異変。「自覚症状はなかった」が、サッカーを続けるためには、手術が必要と言われた。

17歳の時に、1度目の手術を経験。ただ、失敗に終わった。無論、プロへの道は断たれた。サッカーの希望を失った。就いた仕事は、レンガ職人。父の仕事を手伝うようになった。この時も、不整脈は完治していない。家造りの土台となる仕事に精を出す日々。当時の月給は約1600レアル。日本円で約4万という過酷な暮らしだった。

「本当に厳しかった。でも信じていた」。レンガを運び続け、1年半後。救いの手が差し込んだ。横浜FCに加入する前に所属していたブラジルのセリエAセアラーSCだった。当時23歳。手術にかかる莫大(ばくだい)な費用を保証してくれるということで、2度目の手術を受けることになった。ただ、これも失敗に終わった。そこから約2週間後。3度目の手術室に、サウロはいた。ブラジル・サンパウロで一番有名な病院の心臓外科で、オペは無事に成功。その1週間後には、ピッチに立っていた。地元では「奇跡の心臓」とまで呼ばれた。

心電図は動き続ける。セアラーで結果を残し、夢だった日本の地へとやって来た。

「当時からは想像も出来ない。苦しんでいる子どもたちには、いつでも、諦めずに、絶対に治るということを信じて欲しい。前を向いて行くことが大事だと思っている。自分も、信じていたからこそ、小さい時からの夢のサッカー選手を現実に出来た」

新たな夢も出来た。

「日本でずっと長い間、出来るところまでプレーしたい。日本で引退出来たら。日本で歴史をつくっていきたい」

タトゥーは嫌いだった。でも、奇跡を軌跡として刻むことに迷いはなかった。「3度目の手術日は自分にとって、特別な日。残さないといけないと思った」。前髪の左には、ハートのデザインをあしらう。「神様に感謝して、このハートとともに、生きていきたい」。タトゥーとともに、ピッチに立つ。健康な心臓に感謝しながら。【栗田尚樹】

◆サウロ・ミネイロ 1997年6月17日生まれ、ブラジル出身。ブラジル国内でキャリアをスタート。21年夏にブラジル・セアラーSCから横浜FCに完全移籍。爆発的なスピードと圧倒的なフィジカルを武器とするストライカー。昨季は11試合4得点。今季はここまで17試合3得点。身長184センチ、体重85キロ。

▼健康ハートの日 日本心臓財団(1970年設立)が85年に心臓病に対する国民の予防意識の向上が不可欠と考え、8月10日を「ハート」の語呂合わせから「健康ハートの日」と制定した。ちょうど暑さが厳しく、心臓に負担のかかる時期とも重なる。同財団は、心臓病は単に高齢によるものだけではなく、生活習慣に原因があるケースも多くみられ、高齢者だけでなく、若者や働き盛りの壮年層にとっても無視できない病気だとし、予防知識の啓発や研究などに努めている。