2大会前の王者・山梨学院が、優勝候補の神村学園(鹿児島)相手に大健闘したが、2-3と敗れた。

就任1年目の車いすの監督、羽中田昌氏(58)が自らもプレーした全国選手権の舞台に「監督」となって40年ぶりに帰ってきたが、惜しくも全国1勝はならなかった。

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「非運の天才」と呼ばれた選手が40年の歳月を経て、監督となって大舞台に舞い戻った。山梨学院の羽中田昌監督(58)。車いすの指導者。その人生は波瀾(はらん)万丈そのものだ。

切れ味鋭いドリブル突破を武器に、韮崎(山梨)で1年生から活躍。3年連続で全国4強(準優勝2回)に進出。将来の日本代表と目されたが、非運がつきまとった。高校2年の終わりに腎臓病を患い長期入院。復帰できたのは3年生の冬前だった。プレー時間は「15分」と制限された。83年1月、清水東(静岡)との決勝戦でも後半途中から出場すると50メートルものドリブルシュートを放ち大観衆をわかせた。だが、これが人生最後の“プレー”となった。

その年の8月、乗っていたバイクのタイヤがパンクし、ガードレールに突っ込んだ。「なんで俺ばっかり…」。人生を恨んだ。薄れゆく意識の中、通りがかりの年配女性が発した。「世の中、悪いことばかりじゃないよ」。今も心に残る。

93年5月、Jリーグの開幕戦を国立で見た。「もう1度サッカーで生きる」。一念発起し、妻のまゆみさんを連れ添い、スペインへ渡った。車いすのハンディゆえに門前払いを食らった。「あきらめなきゃ目標は逃げないよ」。妻のひと言に救われた。やり続けた結果、06年に日本サッカー史上初の車いすのS級ライセンス取得者となった。だがプロ監督となっても順風満帆とはいかない。七転び八起き。どんなに格好悪くても、懸命に生きる。

だからこそ、伝えられることはたくさんある。「サッカーを精いっぱい楽しむこと、夢中になること」。神村学園戦でチームはそれを実践した。後半ロスタイム。何度も相手ゴールを脅かした。勝負は紙一重だった。選手たちには「ごめんね、ありがとう」と伝えた。人生悪いことばかりじゃない-。あらためて、その言葉をかみしめている。

【佐藤隆志】

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