岡山学芸館が初の決勝で、同県勢初制覇を果たした。

1988年(昭63)の創部時は、部員の喫煙が日常のチームだった。グラウンドは硬式野球部が独占。10人前後だったサッカー部は、校外の空き地でボールを蹴るだけだった。当然、部室もない。雨が降れば木の下で着替える。日没の早い冬は、車のライトでしのいだ。荒れ果てたチームを更生させたのが、高原良明監督(43)だった。

W杯日韓大会のあった02年に東海大を卒業。翌03年、J2昇格前のファジアーノ岡山でプレーしていた頃、クラブ設立の関係者だった当時の岡山学芸館の理事長から「セカンドキャリアの支援をする」と言われ、教員のオファーを受けた。大学時代に教員資格を取得しており、常勤講師として吉谷コーチとともに赴任。夕方からは自身の練習、昼間はサッカー部のコーチとして指導に携わることになった。

高校サッカーで育ち、高校サッカーを愛していた。胸躍る指導者生活のはずが、一瞬にして絶望的な現実に向き合うことに。

「いまだにこんなチームがあるのかって。衝撃的なスタートでした」

それまで外部の指導者はいたものの、部員はグラウンド整備のやり方も、トンボのかけ方も分からなかった。遠征に連れていけば、宿舎の部屋からタバコの臭いがもれてきた。「臭い! 窓を開けろ!」。風呂場に足を運べば、吸い殻が散乱していた。どうしようもなかった。

現役引退後の08年、正式に監督へ就任した。座右の銘は「人生何事にも耐えて勝つ」。文字通り、耐えた。不祥事だらけで辞めていく部員はいなかったが、有望な選手は来ない。学校は特待生も取れなかった。吉谷コーチと「入学した生徒を育てる」と誓った。

高原監督は東海大3年時に総理大臣杯で優勝、ファジアーノ岡山でもプレーした。実績はある。まずはあいさつの指導から始め、鍛えていった。12年、高校総体に初出場。3回戦で静岡学園に0-9で完敗し、生徒たちは初めて全国レベルを痛感した。それが強い岡山学芸館のスタートラインだった。強豪校との試合も増え、徐々に力をつけていった。

荒れ果てたサッカー部が、20年もかからずに全国制覇した。学校関係者は「熱い教育をコツコツコツコツ積み重ねてきた高原監督と吉谷コーチの功績です。あの2人が二人三脚でやってきたものが、ようやく結実した」と涙ぐんだ。どん底を知っている。本当の苦労を味わっている。優勝した高原監督の心境は、考えるまでもない。【只松憲】

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