J2大宮アルディージャの元日本代表GK南雄太(44)が19日、今季限りでの引退を発表した。これまでJリーグGK最多665試合出場の大記録。26年にわたり、第2GKに甘んじることなく、常に守護神であることを追い求めた。実力が全ての世界で、チームに1つしかないポジションを守り続けた価値は偉大だ。

私が静岡支局に赴任した95年10月、選手権予選が佳境だった。同じく1年生の小野伸二の清水商、高原直泰の清水東、名門藤枝東、ダークホースの静岡北。まさに群雄割拠の地で、東京・杉並から来た読売日本SC(現東京V)ジュニアユースの控えだった無名の1年生GKが、今大会からいきなり守護神に抜てきされた。森川拓巳、森山敦司、石井俊也、桜井孝司、深沢仁博、塩川岳人ら、Jリーグに進んだ個性派3年生がそろった静岡学園にあって、ビビることなく好セーブを連発。「PKは一番GKが目立てるから好きですね」と豪語するほどの強心臓守護神の勢いを借り、一気に日本一まで登りつめた。まさにドリームボーイだった。

高1で選手権優勝、2年時は4強。高3の97年ワールドユースには、飛び級で本大会から急きょ招集され8強。柏では経験が物をいうポジションで、高卒ルーキーで開幕スタメン。99年のワールドユースでは小野、高原、遠藤、稲本、本山、小笠原、中田浩二といった黄金世代で準優勝した。

順風満帆で輝かしく見える経歴だが、常に屈辱も味わってきた。鹿児島実との全国選手権決勝では、2ー0から同点に追い付かれた。大雨の中、あと少しで触れたボールをヘディングで決められ、負けに等しい両校優勝。最初のワールドユースでは、決勝トーナメント1回戦で痛恨のキャッチミス。2度目の大会では、決勝で自らの反則(当時のファイブステップ)から先制点を許し、その後もスペインに力の差をまざまざと見せつけられた。その後は2001年を最後にA代表からは遠ざかったが、柏、熊本、横浜FCとチームを変えても決して挑戦をやめなかった。登っては打ちのめされる、そしてまたはい上がるサッカー人生だった。

40歳を超え移籍した大宮でも、守護神の座をつかんだ。昨年5月4日の大分戦でJリーグ661試合出場の新記録を達成。喜びもつかの間、わずか2週間後の盛岡戦で右アキレス腱(けん)を断裂し、全治6カ月の重傷を負った。43歳での大けがに引退がよぎったが、地道できついリハビリから復帰をとげ、今季は2試合に出場してみせた。

先月、静岡時代からの盟友、札幌小野が引退を表明した際にコメントを求めた。「オレらの年代は常に引退と隣り合わせですから、驚きはないです」と聞いた際に胸騒ぎがした。

ついにこの日がきた。

「幼稚園でサッカーを始めてから約40年間、辞めたいと思ったことはただの1度もありません。これっぽっちの悔いも全くないくらいやりきりました」

2000年に出版された児童書のタイトルを私は「南雄太 型やぶりなゴールキーパー」とした。23年後の今、それは間違いなかったと思っている。酸いも甘いも味わった男が、その経験を日本のサッカー界に還元してくれることだろう。【野上伸悟】