表彰台で君が代を聞く13歳と16歳を見ながら、成長した姿がうれしかった。東京五輪での実施が決まってから5年、日本の女子を引っ張ってきた西村がいないのは残念だったが、日本の「子どもたち」のメダル獲得は想定内。メダルを取ったことよりも、そろいのユニホームで神妙にしていることがほほ笑ましかった。

4年前の4月。初めての日本選手権が東京で行われた。日本中から集まったのは、小中学生を中心に平均年齢男子15歳、女子14歳の子どもたち。「はい、整列して~」「君が代では帽子を取って」「滑るのをやめて」と運動会の様相。ずらりと並んだカメラマンとの対比が、おかしかった。

関係者がバタバタしている中で、視察した国際連盟の役員は「日本はすごい。特に女子はメダルレベル」と目を丸くしていた。当時の勢力図は米国やブラジルが圧倒的。日本側は「開催国として恥ずかしくない成績を」と言っていたのだから、国際連盟の言葉は社交辞令にしか思えなかった。

しかし、実は日本はハイレベル。特に低年齢層の技術は世界屈指だった。かつてのスケートボードはやんちゃな若者たちの遊び。始める年齢も10代半ばから後半だった。しかし、この時パークにいたのは、小学校にあがる前からボードに乗っていた子が多かった。

スケボー好きな親は「遊んでばかりいないで勉強しなさい」「危ないからやめなさい」とは言わない。子どもと一緒に遊び、トリックを教える。うまくなってくれば、パークへの送り迎えもする。ある選手の親は「子どもをえさに、自分がやりたいだけ」と言った。今の日本の主力は「2世スケーター」だったのだ。

ただ、実力はあっても世界は遠かった。17年に世界選手権が始まるまで、オープンな世界大会は0。最高峰のSLSやXゲームは招待大会で、日本人は招待されるまでが大変。日本選手で出場経験があったのは男子の瀬尻稜や堀米、女子の西村ら一部、小中学生にとって世界は遠すぎた。

それが、五輪競技になって変わった。SLSがオープン化され、日本代表になれば誰でも予選に出られるようになった。五輪競技だから、学校も遠征を認めてくれた。費用も公費の負担になった。日本代表の西川監督は「まるで修学旅行の引率教師」と笑ったが、子どもたちは初めて出た世界で次々と好成績をあげた。

かつて堀米らを世界に出すルート探しに奔走した日本代表の早川コーチは「挑戦さえできれば、日本は世界を驚かせると思っていました」と話した。親のバックアップを受けて長時間練習する。技術が格段にアップするのは当然だった。

西矢や中山の影響で、スケートボードをやりたい子は増えるだろう。ただ、バックアップは大変。「うるさい」し「危ない」と思うのが普通だと思う。だからこそ、活躍する選手たちの親は素晴らしい。滑ったのは子どもたちだけれど、メダルの半分が親の力であるのは間違いない。【荻島弘一】

スケートボード女子ストリート決勝中、おどける西矢(右)と中山(撮影・江口和貴)
スケートボード女子ストリート決勝中、おどける西矢(右)と中山(撮影・江口和貴)