現役最後の試合を終え取材を受ける元日本代表でPFUの狩野舞子(撮影・益子浩一)
現役最後の試合を終え取材を受ける元日本代表でPFUの狩野舞子(撮影・益子浩一)

 ちょっぴり未練を残して、狩野舞子(29)はコートを去った。

 5月2日。大阪港からほど近い、丸善インテックアリーナ大阪で開催されているバレーボールの全日本男女選抜。1次リーグ敗退が決まっていたPFUブルーキャッツは、最後の試合となる金蘭会高戦を3-0で制した。

 この大会限りでの引退を発表していた狩野は、勝利の瞬間をコート横で迎えた。仲間に胴上げをされた後、寂しそうな笑顔を浮かべながら、こう漏らした。

 「無理やりでも出して欲しかったな」-。

 光と苦悩。現役生活は、いいことばかりではなかった。八王子実践中時代、15歳でアテネ五輪の日本代表候補に選ばれた。中学1年で身長170センチを超えていた少女は、成長痛に悩まされる。07年に右アキレスけん、10年には左アキレスけんに重傷を負い、両膝にも爆弾を抱えていた。走ることさえできなかった日々。たくさんの人から励まされ、支えられてきたからこそ、心からこう言った。

 「今はお世話になった人の顔が浮かんできます。早くから注目してもらったけれど、ケガと付き合いながらの現役生活でした。人と人とのつながりが大事な競技で、大げさかも知れないけれど、自分1人では何もできなかった。みんなとつながっているのを、感じていました」

 東京・八王子実践高から久光製薬入り。身長185センチ。万能選手として海を渡りイタリア、トルコでもプレーした。ロンドン五輪では28年ぶりのメダル獲得に貢献。その裏側ではいつもケガとの戦いがあった。15年には一度は引退を発表しながら、翌16年に現役復帰。常に未練を残しながらも、今回ばかりは「体のこともあって、もう長くはできないと思っていました」と正直に明かし、再び現役復帰する可能性について問われると「それはないです」とハッキリと語った。

 スポーツをする後輩へ、そして子供たちへ-。最後に教えたいことがあった。

 「体の大切さを知って欲しい。食事、トレーニングの方法と、体のケア。知っているのと、知っていないのとでは違うと思う。私は、毎日に一生懸命で、その大事さが分かっていなかった。無知でした。バレーボールを一生懸命やる以外にも、バレーにつながる大事なことがあるんだよ! それを伝えたい」

 そして、例え大きなケガをしてしまったとしても。諦めない不屈の闘志も、残したかった。

 「若い時からケガが多くて、またか、と。でも1回大きなケガをしても、終わった…という思いはなかったです。またリハビリをして、またコートに戻る。そういうふうに頭を切りかえながら、やってきました」

 決して順風満帆ではなかったからこそ、苦労を乗り越えて獲得した五輪のメダルは重く、輝いていた。

 歓声が漏れてくる会場の通路。大勢の報道陣に囲まれ、時折、目頭には光るものがあった。だが、涙は最後までこぼさなかった。

 ケガさえなければ、もう少し選手寿命は長かっただろう。ほんの少しだけ未練はあるが、後悔はないに違いない。15歳から脚光を浴びた1人のアスリートは、29歳で、静かにユニホームを脱いだ。【益子浩一】

現役最後の試合を終え仲間と記念撮影をする元日本代表でPFUの狩野舞子(前列左から3番目)(撮影・益子浩一)
現役最後の試合を終え仲間と記念撮影をする元日本代表でPFUの狩野舞子(前列左から3番目)(撮影・益子浩一)
現役最後の試合を終え仲間に胴上げされる元日本代表でPFUの狩野舞子(撮影・益子浩一)
現役最後の試合を終え仲間に胴上げされる元日本代表でPFUの狩野舞子(撮影・益子浩一)