理想と現実とのはざまで、日本代表の西野朗監督はもがいていた。

 「本意ではなかった」-

日本対ポーランド 決勝トーナメント進出が決まり、笑顔を見せる西野監督(中央)(撮影・江口和貴)
日本対ポーランド 決勝トーナメント進出が決まり、笑顔を見せる西野監督(中央)(撮影・江口和貴)

 目の前の勝負を捨て、2大会ぶりのW杯16強進出を決めたポーランド戦後に、そうつぶやいた言葉は、遠い昔に聞いたことがあった。

 駆け出しのサッカー記者だった04年から、当時G大阪を率いていた西野監督を取材した。11年の冬に10年間率いたG大阪から退任通告を受けた日も、翌12年11月に海の見えるホテルで神戸から解任通告を受けた時も知っている。「情が入ってはいけないから」と、プライベートでは選手とはほとんど食事をしなかった。番記者と酒を飲むこともしなかったが、1度だけ大勢で鍋を囲んだことがある。

 確か、05年にG大阪がリーグ初優勝を飾った後だった。寒い冬の日。ワインを飲んでいた記憶がある。酒を酌み交わすことなどめったにないから、誰からともなく、96年アトランタ五輪でブラジルを破ったマイアミの奇跡の話題になった。かつての栄光に酔いしれるわけでもなく、どこか煮えきれないような、悔しそうな表情をしていたのを覚えている。

96年7月、アトランタ五輪でブラジルに勝利し喜ぶ西野監督
96年7月、アトランタ五輪でブラジルに勝利し喜ぶ西野監督

 「俺もまだ、若かったからね。あのスタイルは、本意ではなかった」

 昨夜、日本でポーランド戦を観戦していた私は、十数年前の鍋を囲みながら言葉を絞り出した時の表情と、テレビに映し出された西野監督の姿が、重なって見えた。

 マイアミの奇跡は、歴史的快挙だと絶賛された一方で、徹底した守備的戦術を敷いてまで勝利に固執した姿勢は一部で批判も受けた。

 そんな背景があったから、G大阪では「超攻撃」とまで呼ばれるスタイルを貫いてきた。「3点取られても、4点取り返す」。相手の戦意を失うほどまで、たたきのめすことが、かつてのG大阪のサッカーであり、西野監督の美学になった。

 ただ、美学を貫きながらも、報われない過去もあった。08年12月のクラブW杯準決勝。クリスティアノ・ロナウド(現レアル・マドリード)を擁するマンチェスターUと壮絶な打ち合いを演じ、3-5で屈した。極東のクラブの名を、世界に知らしめるには十分だったが、それでも西野監督は顔をしかめていた。

08年12月、クラブW杯準決勝に敗れマンUのファーガソン監督(右)と握手を交わす西野監督
08年12月、クラブW杯準決勝に敗れマンUのファーガソン監督(右)と握手を交わす西野監督

 「相手を本気にさせた中で、戦うことができなかった。みなさんは面白いと感じたかも知れませんが、私自身は面白いとは思っていない」

 しばらくたってから、こうも漏らしている。

 「やはり、次のステージに進まないと、という思いはある。本気にさせても、勝てなかったでは、何も手にしたことにはならない。それは、成長を続ける過程で、必要なことだと思う」

 アトランタ五輪では、1次リーグでブラジル、ハンガリーを破って2勝1敗としながら、得失点差で決勝トーナメント進出を逃した。20年以上の歳月が流れた今でも「奇跡」をたたえ続けられながら、「何も手にしていない」という心の空洞を抱えていた。

 マイアミの奇跡の反骨心から、かたくななまでに攻撃力にこだわったのが、西野監督が40~50代にかけての等身大の姿だったように見える。60代になって円熟味を増し、日本代表を率いる今、過去をも受け入れて、生き残ることにこだわったのではないだろうか。

 負けているにもかかわらず、攻めるを捨て、ただボールを回しながら時間が過ぎるのを待った。昨夜のポーランド戦で、誰よりも心の葛藤があったのは、西野監督に他ならない。

 ただ、次にはつながった。決勝トーナメント初戦でベルギーを破り、日本史上初の8強の扉を開けば、前夜の葛藤や批判は、一瞬でかき消される。

日本対ポーランド 指示を出す西野監督(撮影・PNP)
日本対ポーランド 指示を出す西野監督(撮影・PNP)

 どこまでも攻撃的で、ギラギラとしていた西野監督を知る番記者の1人として、「本意ではない」という戦いを経て、新たな歴史を切り開いてくれることを、願っている。【元サッカー担当=益子浩一】