そのリングは、通常サイズの半分だった。昨年12月、大阪市内の「プレイスボクシングフィットネスジム」。整骨院の2階にある手狭な空間で、アマチュアボクシング女子で日本初の世界選手権メダリスト和田まどか(27)がミット打ちをしていた。
相手を想定して、カウンターの左ストレートを繰り出す。健康目的の女性会員や子どもと同じ空間でただ1人、異質な雰囲気を漂わせた。
日本代表で出場する世界選手権(5月、トルコ)に向けて「ボクシングで生活していくことを心がけている」と支援してくれるスポンサー探しをしながら、いちずに歩む。
女子ボクシング界のパイオニアだ。日本女子は東京オリンピック(五輪)でフェザー級入江聖奈(21)が金メダル、フライ級並木月海(23)が銅メダルと、2人のメダリストを排出した。その先駆けとなったのが、和田だった。
世界選手権で、14年にライトフライ級(48キロ)銅メダルを獲得。日本女子初のメダリストになった。18年にも再び銅メダル。日本女子が世界の舞台で、表彰台に立てることを証明した。「以前は国際大会で日本と対戦したら、海外選手は『日本か、やったー』という雰囲気があった」と和田。そんな時代に、国内選手の希望になった。
しかし満を持して、迎えるはずだった東京五輪。19年10月にフライ級の国内選考会で敗れた。
「半年ぐらいはボクシングから離れました」。
失意から横浜の実家で過ごした。コロナ禍もあって、競技環境も不透明な状況だった。何よりも「現役をやるか、やらないか、悩みました。中途半端に続けるとは言いたくなかった」。
体は動かしていたが、未来は見えていなかった。
コロナ禍で延期された21年東京五輪。自分が出られなかった自国五輪を、テレビでじっくりと見た。
「見たくない、という気持ちはなかった。結果も穏やかに見られた」。
画面の中で、かつて自分が勝利した並木が銅メダルに輝いた。代表合宿で慕ってくれた入江は頂点までたった。心に、火がついた。
「まだ自分だって、いける。気持ちが動いたきっかけだった」。
現役続行を決断した。
まだいける-。それは気持ちの問題だけではない。競技の潮流を確かに見てとった。
女子ボクシングは12年ロンドン大会から五輪に採用された。かつては小柄なファイタータイプの選手が手数を出すと採点のポイントが流れる傾向があった。しかし入江に代表されるように、現在は確かな技術を持つ選手のクリーンヒットが評価されるようになった。
和田は「昔よりはファイターが勝つという風潮が消えた。五輪の採点を見てもそう。うまい選手がしっかりポイントをとって勝つ流れができている」。
打たせず打つ、というボクシング本来の姿は和田が得意なスタイルでもある。
さらなる追い風の可能性もある。国際オリンピック委員会は、ジェンダー平等の観点から、男女の種目数を同じにするように調整している。東京五輪でボクシングは男子8階級、女子5階級だった。24年パリ五輪では男子7階級、女子6階級になる。階級分けは今後の決定となるが、女子はフライ級(51キロ)よりも軽い階級が設定される可能性がある。
身長163センチの和田は普段の体重が49~50キロ。適正階級は48キロ級だが、東京五輪はフライ級(51キロ)しかなかった。時に60キロ前後から51キロまで減量するフライ級の選手とは体のサイズ、骨格が異なる。
「芯の太さ、細さでちょっとやられちゃうところがあった。バーンとぶつかった時の衝撃で反撃がわずかに遅れたりする」。
確かな技術でカウンターをヒットしても、接近戦で体をぶつけられ、手数勝負に巻き込まれることがあった。だが同じ階級ならば、当たり負けすることもない。パリ五輪で48キロ級が採用されれば、メダル候補は疑いない。
和田は日本女子をリードしてきたが、東京五輪には届かなかった。
早すぎるパイオニアだったのだろうか。
和田はこう言った。
「早かったという意識はないです。もしライトフライ級(48キロ)があって、自分の適性階級で東京五輪を逃していたら、早かったと思うかもしれませんが」
忘れられない言葉がある。
東京五輪の道が断たれた19年10月。芦屋大時代から声をかけてくれた瀬部勉氏(奈良県ボクシング協会会長)に敗退を報告した。瀬部氏から「2度メダルをとっているという事実はある。階級は違えど、そこを目指したという努力は次につながる。あきらめないことが大事だと思うけど」とした上で「燃え尽きたんならいいんじゃない。まどかが決めな」と言われた。
ボクシングは事故のリスクがある特性上、人にいわれてやる競技ではない。これまでと変わらない態度を示した上で、気持ちを尊重してくれた。和田は「東京に出られなかった時に、それでも応援してくれた。メダルをとって恩返しすることしかできない」。
現在は母校の芦屋大4割、同ジム1割で練習する。今春には所属先だった福井県スポーツ協会との契約が終了するが、あきらめるつもりはない。まずは世界選手権で結果を求める。
「自分のボクシングができれば、メダルにつながる」。
右利きのサウスポーである27歳はかつて、美しいストレートと絶妙のカウンターで日本女子の未来を切り開いた。今度はスポンサーを探しながら、自分自身の未来を切り開く。【益田一弘】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)
◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社。大学時代はボクシング部。全日本選手権に近畿代表で出場もベスト16で敗退。アマチュア戦績は21勝(17KO)8敗。五輪取材は14年ソチ、16年リオデジャネイロ、18年平昌を経験して、21年東京は五輪担当キャップとして取材した。