朝方の赤坂、元気な声が響いていた。
「赤坂の坂は名前が付けられているんですが、江戸時代は住所が無かったんです。形状だったり、寺社仏閣だったり、人の名前だったりから名前を付けて目印にされておりました。今回の坂、『薬研(やげん)』という名前、何か思い浮かぶことはございますか? 私は軟骨しか出てこないんですけど(笑い)、こういった薬をするための道具なんです」
バッグから現物を取り出し、説明する。
元競泳選手の山口美咲はいま、「OMO3東京赤坂 by 星野リゾート」の総支配人に就く。2月25日にグランドオープンを迎えた地上11階に客室140室のホテルは、都市観光の拠点として案内ツアー「まさかの赤坂さんぽ」を行う。そのガイド役「ご近所ガイド OMOレンジャー」も山口にとって大事な仕事だ。
アスリートは引退後にどんな人生を送るのか。セカンドキャリアは多くの選手の悩みでもある。08年北京、16年リオデジャネイロ五輪に出場し、同年8月に引退した山口は、ホテル業界を次なる道に選んだ。その理由、選手の経験の強みなどを聞いた。
■専属トレーナーの何げない一言
16年春、ずっとベッドの上で天井を見つめていた。選考会でリオ五輪代表に選ばれたが、首のケガをして1週間動けなかった。
「本当に水泳が終わるんだなあ。私、このままでいいのかな…」
リオ後の引退は決めていた。所属していた近畿大学付属高校で社会科の先生になる。それが一度は決めた道だった。ただ…。
「私の経験は少しの人しかできてないことかも知れないけど、多くの人が通る道を経験してない。それを伝えることができない。それでいいのかな」
生後10カ月からプールにいた。水の中が人生の全てだった。教育者としての責任も痛感した。
「私は今からもっと苦悩を知らないと、知らない事にチャレンジして、社会を知らないといけない」
26歳、1つの岐路を迎えようとしていた。
「星野リゾートって知ってる?」
専属のトレーナーの何げない質問が始まりだった。すぐに調べて目にした「星のや」の紹介映像にくぎ付けになった。
「すごく洗練されてて。何だろう、この世界はと。現役の時は世界を飛び回り、いろんな宿舎にも泊まらせてもらったんですけど、こんなホテルには泊まったことないなと」
高揚感と感動を覚えた。すぐに携帯の検索履歴は「星野リゾート」で埋め尽くされた。そして、思い切ってフェイスブックでメッセージを送った。
「当時は社長、いまの星野代表に送りました。告白するみたいな気持ちで」
2週間後。「遅れてすみません。一度お話をしませんか」と返信がきた。提案された日にちは7月2日。拠点は大阪だったが、3日に都内でリオ五輪の結団式があった。その前に1日だけ自由時間があった。
「これは運命だ」
当時40弱あった施設の特長を調べ上げた。ぎっしり予習したノートは10ページにも及んだ。会社に恋していた。迎えた星野との対面。感じた会社の素晴らしさを伝えた。
「いままでの水泳の経歴は必要ないです。一から新入社員として入れてほしい」
懇願すると、返ってきた言葉があった。
「あなたはどんな人生を歩みたいの?」
それは競技人生初のスランプ時に、自分が考えていたことと同じだった。
■リオ五輪を終えプールに別れ
08年北京五輪の女子800メートルリレーに大学1年生で出場。12年ロンドン五輪では日本女子初の自由形での決勝進出を目標に描き、翌09年には100メートル自由形の日本記録も更新した。当時は高速水着が禁止になる直前。最後にさらに記録を更新するために、オフを返上して09年末の東アジア大会を目指した。
「でも、全然結果が残せず。水泳人生史上最高の練習を積みあげてきた自負があった。目の前が真っ暗になった。水泳を取った自分は何だろうと」
水泳がなくなった先の人生でも、自立していく自分を作っていく。そう決めた。20歳だった。そこから心の片隅に「どう生きるのか」はとどまり続けた。だから、星野に聞かれた問いがスッと胸に落ちた。
入社は17年4月に決まった。リオ五輪を戦い終え、プールに別れを告げた。それまでアルバイト経験もなかった。勧めで16年11月から1カ月間「星のや東京」でインターンとして研修を積むことになった。
「すべて新鮮でした。いままで仕事経験は水泳だけ。これだけきついことやって、毎日明日が怖いと思うような練習をして。体も痛くなく、脈も上がらず、筋肉痛にもならず、『これが仕事なの』みたいな。これが働くことなんだとびっくりした」
■「生きているだけで丸もうけ」
楽しかった。
「お客さまがサービスを受けて感動していたり、笑顔がこんなに出る。香りから光から全てのものはそのため。良い仕事だなと」
今までは主役は選手の自分。正反対の立場になった。
「自分にフォーカスを当てていたのが相手になった時に、全く分からなかった」
ただ、その作業も新たな発見で、前向きな気持ちしか湧かなかった。
客室清掃からフロント業務、あとは部屋食を運んだり、調理も。ほぼ全ての滞在サービスを学んでいった。マーケティング部門などを経て、21年6月にOMO3東京赤坂の総支配人になることが決まった。
いま、6人のスタッフで支え合いながら、試行錯誤の毎日を送る。胃がきりきりする日々だが、そこには笑顔がある。
星野代表はその働きぶりをこう評する。
「スポーツ選手は、練習は不可能を可能にすることを本当に体験として知ってて、新しい分野でも地道に自分のスキルを上げることが出来る。失敗、怒られる時など、いろんなアップダウンがある。そのダウンに対しても強いんですよ。しっかり受け止めて、常に前向きに、楽観的に、スキルを上げていくのは特別なスキルだと思いますね」
特に山口には笑顔があふれる。
「アスリートは限界を超えていく。体は動くと思うと、やれる。そんな経験もあるのかな。生死まではいかない、と思うんです。生きているだけで丸もうけ、ですね」
■長崎生まれ、世界平和への思い
ただ、それだけではない。アスリート人生の終盤の経験も、いま生きる。
「リオを目指せたのは、周りの仲間が『美咲ちゃんと五輪に行きたい』と言ってくれたからでした。同じ目標、同じ夏を過ごすのがモチベーションで、この人たちとなら頑張れると」
そして、少し照れ気味に教えてくれた。
「私は長崎の生まれで、やりたいことを突き詰めていくと世界平和だったんです。そういうと話が大き過ぎますよね。自分の身近で考えると何かというと、周りも笑顔にすることだったんです。総支配人になり、チームメンバーができて、人生を使って一緒にいろんなものを作って、時間を過ごしてくれている。水泳の時と同じような関係性で、そこはとても大事にしたい」
心身だけではない。周囲への思いも水泳からもらった贈り物だろう。
いま、後輩たちに伝えたいことは? 最後に聞くと、明るい声で、思いを込めた願いが返ってきた。
「あなたはとても誇らしい人生の時間を使ってきたし、学んできたことは、何もなかったことに絶対にならないからと言いたいです。だからこそ、いろんなパターンがあると思うんですけど、その中の1つを作っていきたいですね」。(敬称略)