2011年(平23)3月11日、レスリングの湯元進一は1人、東京都練馬区にある自衛隊朝霞駐屯地のプールにいた。突然、水が激しく左右に揺れた。プールを出て振り返ると、水かさは半分。慌てて飛びだした屋外に、信じられない光景が広がった。「次から次へと緊急車両が出ていった。10分ぐらいで、誰もいなくなった」。あの日、東北に甚大な被害をもたらした震災は、スポーツ選手の意識も大きく変えた。

「自衛官なのに、何もできない。自分の手で被災者を助けたい…」。1人取り残されて焦燥感に襲われた湯元を救ったのは、教官の一言だった。「お前はオリンピックでメダルを取るのが仕事。救助や復旧と同じことだ」。その言葉は、決して忘れないという。

自衛官としての葛藤は湯元だけではなかった。「五輪で結果を残すことが支援活動」と覚悟を決めたからこそ、翌年のロンドン・オリンピック(五輪)には64年東京五輪に次ぐ12人が出場を果たした。湯元は銅メダルを獲得、レスリングの米満達弘ら自衛隊勢は金2、銅2のメダルを獲得した。過去最高の成績には「被災者のために」という思いが詰まっていた。

自衛隊員だけではない。多くの選手が悩み、苦しんでいた。家族や知人が被災した選手もいる。地元が被害に遭った選手もいた。メディアは被災地の状況を伝える。「スポーツなんかやっている場合か」と考えた選手も多かった。

この頃から「スポーツの力」という言葉が頻繁に使われ出した。選手が被災地を訪問し、子どもたちとスポーツを楽しむ。「元気をもらいました。頑張ってください」の言葉に背中を押された選手は多い。12年ロンドン五輪、国民の期待を背負った日本選手たちは過去最多38個のメダルを獲得した。銀座のパレードには50万人が集まった。

昭和の時代、スポーツはまだまだ「遊び」だった。一部のスター選手やプロ野球や大相撲、ボクシングなどのプロ興行を除いてはファンも少なく、社会的地位も低かった。五輪競技などは「好きな人」が「好きだから」やっているだけ。日本のスポーツ界は「閉ざされた」世界だった。

それが、平成で変わった。五輪スポーツの認知度もアップ。プロ野球報道一色だった新聞のスポーツ面は拡充されテレビでの露出も増えた。国民の関心が高まった。声援が大きくなれば選手も「応援してくれる人のために」頑張る。

昭和の終わりから平成にかけて、選手は「自分のため」に戦った。「五輪を楽しみたい」という言葉も多く聞こえた。最近は「国民に元気、勇気、希望を与えたい」や「支えてくれる人のために」など「感謝」を胸に戦う選手が増えた。スポーツ界が一般の人たちに対して開かれた存在になるとともに、選手の意識も大きく変わってきた。

15年には文科省の外局としてスポーツ庁が設置された。20年東京五輪を前に、スポーツを取り巻く環境は変わりつつある。スポーツ基本法にもとづく「スポーツ基本計画」では、スポーツを「する」「見る」「支える」という多様な形が提起されている。

かつては「する」だけだった五輪競技。「見る」人が増え「支える」人も現れた。スポーツ界はかつて、わずかな「する」人だけのものだった。今は支えるまでを含めて「1億総スポーツ社会」を目指している。

東日本大震災をはじめ、平成時代の終盤に列島を襲った自然災害。その中で、スポーツのあり方も変わった。そして、来年には「復興大会」を掲げる東京五輪・パラリンピックも開催される。昭和時代(88年ソウル五輪)の競泳金メダリストでもあるスポーツ庁の鈴木大地長官は「これから、さらに支える部分は大きくなる」と話す。人々に支えられ、それに応えるスポーツ界。「令和時代」の社会で、スポーツはさらに大きな力になる。(敬称略)【荻島弘一】