1962年6月、日本が開催国として主張した東京五輪の女子バレー採用が正式に決まる。「地元で金メダル確実」という思いがあったのだが、五輪まで2年の道は平たんではなかった。世界選手権優勝から凱旋(がいせん)帰国した同年11月10日、思わぬ騒動が持ち上がった。祝勝会の席で突然、監督の大松博文が辞意を表明したのだ。

「この2年間、ソ連を破って世界一になるためにやってきた。これで目的は達成できたし、体力も限界にきているので、監督は辞めたいと思っています」

協会幹部は混乱し、報道陣は色めきだった。大松はその後、理由を<1>世界一になって目的を果たした<2>結婚適齢期の選手を解放してやりたかった<3>犠牲にしてきた家庭を大事にしたかった-と語っている。激しい練習の日々で、持病だった心臓の状態も良くなかった。

直前の10月に、日本は初めて世界の頂点に立っていた。モスクワで行われた第4回世界選手権。日紡貝塚の10人に、翌春日紡入社する磯辺サダ、篠崎洋子の高校生2人を加えたメンバーだった。前年の欧州遠征で「東洋の魔女」と名づけられたチームは注目を集める。それでも大松はマイペースを崩さず、試合の日も最低4時間の練習を欠かさなかった。

「打倒ソ連」に燃えたチームは、宿敵と20日の決勝リーグ3戦目で激突する。会場にはブレジネフ最高会議議長や前年に人類初の宇宙飛行を成功させたガガーリンら、約2万人の観衆が詰めかけた。第1セットを落とした日本だが、猛練習で身につけた「回転レシーブ」で守り抜き、第2、第3セットを連取。第4セットは15-3で圧倒した。完全アウエーで王者を破った日本は、その後3戦もものにして初優勝。ソ連を倒した悲願の世界一で、指揮官に大きな達成感があっても不思議ではなかった。

大松の辞意表明後、主将の河西昌枝以下、選手も同調し引退表明。大松のもとへは協会幹部が日参して説得。一般市民も5000通以上の手紙を送って辞意撤回を求めた。日紡貝塚はいつの間にか「日紡のチーム」から「日本のチーム」になっていたのだ。

騒動から1カ月半。年末に大松は「ゆっくり相談して来い。お前たちがやるのなら、ワシもやる」と選手に休暇を与えた。女性の平均結婚年齢が24・5歳だった当時。五輪時にはレギュラー平均年齢は26歳、最年長の河西は31歳になる。金メダルを目指すことが、女性としての幸せを邪魔してしまう-と心を痛めていた。チームでただ1人、婚約者がいた半田百合子が振り返る。

半田「辞めるつもりで故郷の栃木に帰ったんです。そしたら彼が『もう少しやっていい』と言うので決心しました。でも、五輪までの2年間は正直、しんどかったですね」。

年が明け63年1月4日。帰郷先で周囲の期待を肌で感じた選手たちが貝塚に戻った。「石にかじりついてでもオリンピックまではやります」の決意に、大松も「あと2年、はじめからやり直すつもりで頑張ろか」と答えた。猛練習に立ち向かう覚悟を決めた選手の強い意思に、大松の心は震えていた。(つづく=敬称略)【近間康隆】

◆バレーボール世界選手権 国際バレーボール連盟主催伝統ある世界大会。49年、チェコで第1回男子大会が開催され、女子は52年から行われている。日本は60年のブラジル大会から参加。昨年の日本大会まで男子は70、74年の3位が最高で、女子は62年、67年、74年と3度優勝している。現在、開催国と前回優勝国、各大陸予選を勝ち抜いた24カ国が出場。五輪イヤーの中間年に行われ、次期五輪前哨戦という位置づけでもある。10年女子大会も2大会連続の日本開催が決まっている。

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