辞意撤回した大松博文監督に、次なる問題が持ち上がった。翌64年の東京五輪で「金メダル」を至上命題にする日本協会で、新たな議論が起こったのだ。五輪強化本部本部長の前田豊が「今の日紡は飛び抜けて強いが、金メダルを絶対的なものにするには、日紡を追い越すようなチームが欲しい」とコメント。この発言は新聞各紙に「協会が打倒日紡のチームを編成」と報じられた。

協会はその言葉通り、日紡と長年ライバルだった倉紡や鐘紡、ヤシカの選手を集めて合宿を重ねた。63年8月に協会は、日紡貝塚の欧州、中近東遠征と同時期に選抜チームを中国へ派遣。ここで10勝1敗の好成績を残したことで、選抜チームの強化に拍車がかかった。

そして10月、五輪リハーサルの「東京国際スポーツ大会」が開催された。ソ連、チェコスロバキアを招いたこの大会で、日本からは日紡貝塚と日本選抜、高校選抜の3チームが出場。ここでなんと、日本選抜がソ連に2連勝したのだ。世界最強の「東洋の魔女」を、日本選抜が破るか-。日紡貝塚VS.日本選抜の試合は異様なムードの中で行われた。

日紡貝塚が第1セットを10-15で失う。第2セットは15-12で競り勝ったが、第3セット5-15。約4年間負けを知らないチームが、土俵際まで追い込まれた。だが、そこからが真骨頂。鉄壁の守備でボールを拾ってつなぎ、第4、第5セットを連取。勝利を譲らなかった。河西昌枝主将が強さを説明する。

河西「いつもの練習でやっている通りにやり、先生の言う通りにしていれば、負けることはないと思っていた。自分たちほど練習しているチームは、ほかにない。厳しい練習を乗り越えている自信と、勝ち続けているモチベーションが、連勝につながっていたのかもしれません」。

両チームは翌64年3月21日のNHK杯で再戦した。前年同様、日紡貝塚が負けることを期待するかのような報道が続き、この一戦は「巌流島の決戦」と呼ばれた。選手を鼓舞する大松。「どんなチームもやってない練習をしてきた。どんな状況でも最高のプレーが出せる信念を持っている。負けることはない」。日紡貝塚は、5カ月前にフルセットまで持ち込まれた相手をストレートで下す。「五輪は日紡貝塚を主力とする」。1年以上の代表編成論は決着した。

同年4月26日。創立75周年を迎えた大日本紡績は「商品名と社名を一致することで宣伝効率を高めたい」と、社名を「ニチボー」に改称した。このころはマスコミ媒体で「ニチボー貝塚」を見ない日はないというほど、注目を浴び続けた。会社にとって、社名変更の宣伝効果は十分だった。

ピエロのように扱われても、大松は冷静だった。試合のない期間は全国各地、特にニチボー関連企業がある土地で「お披露目」の練習行脚をすることがあった。「どんな環境で試合するかわからない」と真冬で極寒の北海道では窓を開け、雨の屋外コートでも練習させた。多くのリスクを背負いながらも「6人での戦い」に執着したニチボー貝塚は、幸い1人の離脱者も出さずに五輪本番を迎えた。金メダルへのシナリオは、五輪前に出来上がっていたのだった。(つづく=敬称略)【近間康隆】

◆東京五輪の金メダル 五輪前、選手強化対策本部は「目標は金メダル34個」と発表した。実情は「全体の10%にあたる15個はほしい」(大島強化本部長)だったが、女子バレーボールの1個は確実とされていた。結果は16個(体操5、レスリング5、柔道3、ボクシング1、重量挙げ1、バレーボール1)で前回60年ローマ大会の4個を大きく上回り、米国(36個)、ソ連(30個)につぐ3番目で開催国の面目を保った。なお、金メダル16個は04年アテネ大会と並んで史上最多数。

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