来るべき日がやってきた。1966年8月6日、世界選手権兼アジア大会代表選考会の対ヤシカ戦。第1セットを15-2で先取したニチボー貝塚だったが、第2、第3セットを落とした。第4セットこそ取り返したが、粘りは届かなかった。最終第5セットは、10-15。連勝開始から2458日目、積み重ねた大記録がついに止まった。場所は皮肉にも、東京五輪で歓喜の金メダルを獲得した駒沢屋内球技場だった。

うなだれる選手の横で、観戦していた前主将の河西昌枝が報道陣に囲まれていた。「いつかこういう日が来るとは思っていましたが…。今は後輩たちがかわいそうな気持ちでいっぱいです」。控室で号泣する後輩を思い、河西もハンカチで目を抑えていた。「ニチボー貝塚、敗れる-」。報道は翌日の新聞各紙のトップを飾り、日刊スポーツは「王者は敗れるためにある」と書いている。

実は東京五輪後は、激動の連続だった。65年1月、監督の大松博文がニチボーを退社。後任には大阪・四天王寺高監督で、五輪ではマネジャーを務めた小島孝治が決まった。だが、大松の後を追うように河西と宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子も辞表を提出。小島にとって、四天王寺高での教え子になる谷田、松村の引退は誤算だった。金メダルメンバーが5人も抜けたが、小島にも意地があった。

小島「そりゃ、引き継ぐのは嫌だった。本音を言えばゼロからやりたかったよ。大松さんの後は、何やっても2番煎じと言われる。でも大松さんの指導には心、魂があった。情熱だけは負けないようにと思っていた」。

四天王寺高を高校バレー界の強豪に育て、「選手づくりの名人」と言われた小島の手腕は確かだった。旧チームでは2軍としてほとんど試合経験のない選手を厳しく鍛えた。攻撃型のチームとして生まれ変わったニチボー貝塚は、魔女引退後で違った意味で注目される中でも白星を重ねていった。

時には思わぬ敵も現れた。66年の4月には、引退した「魔女」が女優の淡島千景をオーナーに「フジ・クラブ」というチームを結成した。河西ら3人が結婚、練習量もわずかだったが、引退直後だけに実力は十分。実業団の強豪を次々と破り「魔女の復活」と持ち上げられた。同年6月24日のNHK杯で、ニチボー貝塚とフジ・クラブが激突。何ともいえない盛り上がりを見せた「新旧魔女の対決」は、「新魔女」が3-1で勝利した。

ニチボー貝塚はこの大会で、ヤシカ、日立武蔵も下し、5連覇を果たした。緊張から解き放たれたようにこの41日後、連勝はストップ。苦境で始まった小島ニチボーだったが、258連勝の後半に「83個」の白星を上積みしていた。

67年には男女6チームにより、日本リーグがスタートした。全国各地で行う長期リーグ戦はプロ野球、サッカーに続くものだった。ニチボー貝塚は日立武蔵、ヤシカ、全鐘紡、東洋紡守口、林兼産業とともに創設メンバーとなる。69年には会社の合併で「ユニチカ」と改称したが、伝統は脈々と受け継がれた。ニチボー貝塚が引っ張った女子バレー界は、隆盛を迎えた。(つづく=敬称略)【近間康隆】

☆日本の主な連勝記録☆

◆プロ野球 54年南海と60年大毎の18連勝。

◆サッカー 鹿島がリーグ戦16連勝(98~99年)。

◆ラグビー 神戸製鋼が公式戦71連勝(88~94年)。関西大学リーグでは同大が85年に大体大に敗れるまで71連勝、関東大学ラグビー対抗戦では明大が50連勝。

◆柔道 山下泰裕が203連勝(7分け挟む)。女子では谷亮子がアトランタ五輪決勝で敗れるまで84連勝、その後も65連勝。

◆大相撲 第35代横綱双葉山の69連勝。

◆テニス 沢松和子が国内試合192連勝(67~74年)。

◆学生 日体大水球部が376連勝(73~95年)。天理大ホッケー部は男子が関西リーグ331連勝、女子は国内219連勝。

 

◆小島孝治(こじま・こうじ) 1930年(昭5)6月29日、大阪市生まれ。関大在学中の50年から大阪・四天王寺高バレーボール部の指導を始め、卒業後に同校教員。65年からニチボー貝塚・ユニチカ監督、部長、顧問として長年、チームを支えた。全日本女子監督としても70年世界選手権で準優勝、72年ミュンヘン五輪では銀メダル獲得。幻に終わった80年モスクワ五輪も監督だった。日本協会常務理事、強化本部長、大阪市教育委員長、社団法人大阪スポーツマンクラブ会長などを歴任。

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