日紡貝塚は1953年(昭28)に結成された。無名に近い集団に、56年(昭31)に宮本恵美子(現姓寺山)が和歌山商から、2年後には谷田絹子(現姓井戸川)が四天王寺から加わって基礎ができた。58年(昭33)には都市対抗に勝ち、国内無敵となった。

監督の大松博文は、その時点で早くも世界に目を向けていた。他チームは9人制バレーボールに躍起だったが、大松は米国、仏国からひそかに6人制の技術書を取り寄せて研究していた。59年(昭34)のことだった。

【証言】吉田正雄氏(67=元朝日新聞記者) 「根性の大松さんには、いつも科学的な裏付けがあった。国外に目を向けた時には、すでに世界一に焦点を合わせていた。だからこそ、選手も納得してついていったのだと思う」。

【証言】元日刊スポーツ記者・梶山隆平氏(65) 「女子バレーボールは、大松さん以前は、遊びだと思われていた。だからこそ、衝撃を受けた。あの人の、自分に妥協しない厳しさのとりこになった」。

屋外のコートで9人制の練習をやったが、体育館ができてからは、外が暗くなると室内に移り、そこでは6人制の練習をした。60年(昭35)の世界選手権ブラジル大会に、日本は初めて男女の代表を送った。女子監督は前田豊氏(当時日本協会理事長)、大松はコーチ。「慣れない6人制では上位は無理」とみられたが、女子はソ連に次いで大善戦の2位だった。大松は満足しなかった。

攻撃偏重が世界の傾向だったが、大松は逆に「レシーブに重点を置いて、日本の特徴にする」と帰国時に言い切った。猛練習は理論と目標があっての「手段」で、それ自体は目標ではなかった。

【証言】松村好子さん(53=現姓神田) 「これから秘密練習をする、だれも体育館に入れるな、が始まりでした。座布団を腰やひざに巻き付けて、飛び込みレシーブをやれと。ぎりぎりの球が飛んでくる。床に体をぶつけなくてはとれないからアザだらけ。それを一人300本です」。

手から飛び込んで、すぐに起き上がらねば、次の球が顔に飛んでくる。柔道の受け身のように、肩から落ちてすぐに左右斜め前に回転する「回転レシーブ」は、理論説明ではなく、選手の生身の体が会得していった。それには無限の反復練習が必要だった。

【証言】谷田絹子さん(55=現姓井戸川) 「何百本もの受け身で足が動かなくなった時に、バケツで水をかけられたことがありました。ずぶぬれにされて、思わず体育館から飛び出して、もうやめる、と。結局は、ここで逃げたら私の負けや、と体育館へ引き返しました。白い雪が舞っていました」。

【証言】宮本恵美子さん(57=現姓寺山) 「61年(昭36)の欧州遠征で、食事が合わずにやせ細っている時に、炎天下の屋外で絞られて、泣きじゃくりました。でも、だからソ連に勝てたのでしょう」。

連戦連勝、初めは「東洋からの台風」だったが、モスクワの記者が「東洋の魔女」と書いた。それが定着した。しかし回転レシーブに関しての記事はなかった。

【証言】吉田正雄氏 「未完成でもあったのだろうが、大松監督は、翌年の世界選手権モスクワ大会に備えて回転レシーブを伏せたのだと思う」。

翌年、日本は優勝した。【特別取材班】(つづく)

◆バレーボール バスケットボール同様、YMCAがルーツの人為発生競技。1895年(明28)、米マサチューセッツ州のYMCA主事、モーガンが考案。テニスとハンドボールの中間競技として始められた。フィリピン経由で、日本には1913年(大2)に伝来、2年後には京阪神YMCAの公式試合があった。世界では16人、12人、9人制を経て、16年(大5)の統一ルールで6人制が公式戦の基準となったが、日本は9人制に固執。日本が6人制世界選手権に参加したのは60年(昭35)から。

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