15年に54歳で亡くなった斉藤仁さんの次男、立(たつる、20=国士大)が初優勝した。親子2代で全日本制覇は史上初。191センチ、165キロの恵まれた体格を生かし、決勝では21年世界選手権優勝の影浦心(26=日本中央競馬会)との14分超に及んだ死闘を制した。長く父仁さんを取材していた荻島弘一記者が、仁さんとのやりとりを思い起こし、優勝に涙しつつ、思い出をつづった。

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「狙うのはパリだな。可能性あるし、出てほしいね」。生前の仁さんは言った。全柔連が全国の子供を集め13年末に行った初の小学生合宿。強化委員長として見つめる先に「強くなって、お父さんを秒殺したい」と無邪気に話す立がいた。

「東京五輪を狙わせたら?」と聞くと「無理よ。選考に間に合わない。まだ子供よ」と強化委員長の顔で言った。それでも「期待してんだろ」とさらに突っ込むと、父親の顔になって「パリ」と東京の4年後を口にした。

好きな言葉は「剛毅朴訥」。その言葉のように、決して口が達者な方ではなかったが、子供たちの話になると饒舌(じょうぜつ)だった。「子どもだと、どうしても体の大きさで柔道をしたがる。立にはしっかり技を教えている。体に頼っていては、海外では勝てない」。その脳裏には、世界で戦うわが子がいたに違いない。

「全日本は特別よ」は仁さんがよく口にしていた言葉だ。五輪を連覇していても、全日本はソウル五輪直前の88年しか勝てなかった。9連覇した山下泰裕に3年連続決勝で敗れたからだ。最後の対戦となった85年は僅差の旗判定。それだけに全日本は特別だった。

84年ロサンゼルス五輪95キロ超級金メダル獲得後、父伝一郎さんに「調子に乗るなよ。お前はエベレストには登っても、まだ富士山には登れていないんだから」と言われた。仁さんは「富士山はよ、エベレストよりも高いってことよ」とも言っていた。

柔道スタイルも、汗をぬぐう姿も、父にそっくりな立。エベレストより「高い」富士山の頂上に立った息子の姿に、古いファンは斉藤仁の姿をみて涙したはずだ。私も泣いた。涙もろい父仁さんもきっと、天国で大泣きしているに違いない。【荻島弘一】

◆斉藤立(さいとう・たつる)2002年(平14)3月8日、大阪府生まれ。東京・国士舘高-国士舘大3年。6歳から柔道を始め、恵まれた体格と父譲りのセンスの良さで、大阪府のタイトルを総なめ。男子100キロ超級で18、19年全国高校総体、18年全日本ジュニア体重別選手権優勝。21年のグランドスラム・バクー大会でシニアの国際大会初制覇。得意は体落とし、払い腰。191センチ、165キロ。

◆斉藤仁(さいとう・ひとし)1961年(昭36)1月2日、青森市生まれ。国士舘高-国士舘大と進む。1984年ロサンゼルス、88年ソウルの両五輪で95キロ超級連覇。83年世界選手権無差別級優勝、86年アジア大会95キロ超級優勝、88年全日本選手権優勝。引退後は全柔連の強化委員長、国士舘大教授を歴任。15年1月20日、肝内胆管がんのため54歳で死去した。