柔道男子66キロ級の世界選手権で優勝2度の丸山城志郎(31=ミキハウス)が17日、現役引退を発表した。
所属を通じて「非常に濃い柔道人生でした」と感謝。同日付で全日本柔道連盟に強化選手に辞退届を提出した。24年パリ五輪で2連覇した阿部一二三(27=パーク24)の宿命のライバルで通算4勝7敗。20年12月の東京五輪代表決定戦は24分間に及んだ死闘の末に敗れたが「令和の巌流島」として伝説になった。25日に大阪府内で記者会見を開く。
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記憶に残る柔道家が、勝負の畳を下りる。丸山が「17日をもって引退することを決意」した。実直な男が所属を通じて思いの丈を打ち明け「五輪優勝を目標として日々稽古に励んできました。結果、その夢はかないませんでしたが、どんなに苦しい時も闘い抜くことができたのは、いつも応援してくださった皆さまのおかげです。非常に濃い柔道人生でした」と感謝した。
世界一の美しさと称される内股を武器に、かつては好敵手の先を走っていた。15年の初対決で勝ち、阿部の16年リオ五輪への道を断ったのが丸山。19年の世界選手権(東京)も阿部を破って初優勝した。一時3連勝で4勝3敗と勝ち越し、夢の東京五輪に王手をかけたが、勝てば代表内定だった19年グランドスラム(GS)大阪大会で借りを返された。左膝負傷で翌年のGSパリを欠場すると横一線になり、あの日を迎えた。
20年12月。男女14階級で唯一の東京五輪代表決定戦を、史上初のワンマッチで阿部と争った。歴代最長24分00秒の勝負は「令和の巌流島」決戦と呼ばれ、通常の6試合分に相当した死闘の末に力尽きたものの、日本柔道史の伝説となった。
その後、阿部について口を開くようにもなった。日刊スポーツの取材に「日々の稽古やトレーニングで追い込んだ時『残り1セット』という状況で体に限界がきても、彼のことが脳裏に浮かび『絶対に負けない』という気持ちになる。試合のシミュレーションも繰り返して、夢では何度も闘った。自宅でくつろいでいても体が急に反応してビクッとした時もある。細かいことだけど、こういった積み重ねが阿部選手に対する闘争心を高め、自分自身を強くしてくれる。この関係は続くだろうし(決定戦が行われた)20年12月13日は忘れたくても忘れられない日になった」と語っていた。
24年パリ五輪も阿部に阻まれた。22、23年の世界選手権決勝で連敗。通算4勝7敗でライバル関係に引導を渡されると「僕の持てる技術、意地、執念、思い、全てをぶつけた。もう五輪への道はない」と潔く認めた。世界一2度の丸山でも届かなかった夢舞台。発祥国ゆえの悲運に泣いたが、記憶には刻まれた。24年も「負けて終われない」と現役を続行したが、次回28年のロサンゼルス五輪までは描けなかった。【木下淳】
◆東京五輪柔道男子66キロ級代表決定戦 2020年(令2)年12月13日、東京・講道館の大道場で開催。日本史上初のワンマッチで無観客だった。本戦4分間はすぐ終了。延長戦に入って計16分、指導2で並ぶ。阿部が顔から出血も、治療後の計24分ちょうどに仕掛けた大内刈りが丸山を倒し「技あり」となった。勝った阿部も号泣。あまりの死闘に、テレビ東京の生中継番組が途中で終了したことも物議を醸した。試合後、丸山は「肉体的にも精神的にも成長できて強くなれたのは、阿部選手の存在があったから」と涙で語った。
◆丸山城志郎(まるやま・じょうしろう)1993年(平5)8月11日、宮崎県生まれ。3歳から畳に立つ。福岡・沖学園高-天理大-ミキハウス。世界選手権は19、21年に優勝(コロナ禍を挟み2連覇)。22、23年は2位。GS大会メダルは金3銀4。左組み。得意技は内股、ともえ投げ。父の顕志氏は92年バルセロナ五輪65キロ級7位。兄は81キロ級の剛毅。家族は妻と2子。167センチ。血液型A。


