「体操ニッポン」の礎を築いた遠藤幸雄(えんどう・ゆきお)氏が25日午前4時16分、食道がんのため、東京・千代田区の駿河台日大病院で死去した。72歳だった。60年ローマ五輪で日本初の団体優勝、64年東京五輪では個人総合初の金メダルを日本にもたらすなど、五輪と世界選手権で金8、銀7、銅2の計17個のメダルを獲得。日本体操界をけん引した人生だった。故人の遺志で密葬され、後日、お別れの会が開かれる予定だ。

 遠藤氏は07年10月に食道がんの手術を受け、一時は回復に向かっていたが、昨年1月に緊急手術、同8月4日に入院後は闘病生活が続いていた。昨年末まで持てばといわれていたが「心臓が強く、さすが世界を制した方」と病院関係者を驚かせる生命力をみせたが、ついに力尽きた。

 秋田市の久保田中2年のときに周囲の勧めもあり、「かっこいいと思った」と、鉄棒の蹴上がりもできないのに体操を始めた。秋田工高では「将来の就職を考えて」と電気科を選択。そこで転機が訪れた。秋田出身の先輩・小野喬氏(56年メルボルン五輪鉄棒で日本体操初の金)の演技を見て感動。3年時に高校総体個人2位となり、東京教育大(現筑波大)に進学。卒業後、日大助手となって、60年ローマ五輪代表に選ばれ、日本初の団体総合優勝に貢献した。

 エースとして臨んだ64年東京五輪では日本初の個人総合優勝など金メダル3つを獲得。選手団の旗手を務めた68年メキシコ五輪では、若手をまとめて体操団体総合3連覇を達成した。五輪のメダルは金5、銀2。「体操ニッポン」の道筋をつくった。その後、日本体操協会専務理事(現顧問)や日本オリンピック委員会理事などの要職を歴任。日大(名誉教授)では後進の指導に熱心だった。96年紫綬褒章、昨年は旭日中授章を受章。99年には体操殿堂入りを果たした。

 「美」を追求した体操で世界を制した。「頭からつま先まで伸びること。体操は美しくないといけない」と常々話し、その思いは脈々と受け継がれている。鉄棒の「前方開脚浮腰回転倒立」は国際体操連盟が「エンドー」と命名、今もトップ選手が取り入れている。美しい「体操ニッポン」を築いた功労者が体操一筋の人生に幕を下ろした。