ラグビーW杯フランス大会が28日(日本時間29日)、南アフリカの2連覇で幕を下ろした。

日本代表は1次リーグ2勝2敗で8強を逃したが、27年オーストラリア大会の出場権を獲得。選手は各所属チームに戻り、12月9日の国内リーグ「リーグワン」開幕に備えている。

ラグビー界最大の舞台を目指して、努力を重ねた日本代表選手の思いに迫る3回連載。第1回は主将を務めたNO8姫野和樹(29=トヨタヴェルブリッツ)。

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プライベートショットに、トヨタ練習場での1枚…。日本に帰国後、姫野はSNSを通して表情豊かな日々を発信している。チームへの本格合流は11月13日を予定。心身をリセットするつかの間の時間と過ごす。

「みんなのことを誇りに思う。エベレストを登る夢や目標は、これからも受け継がれていく。胸を張って帰ろう」

涙を流し、肩を落とす仲間へ語りかけたのは10月8日だった。フランス西部のナント。勝者が準々決勝に進む、アルゼンチンとの1次リーグ最終戦に敗れた。

日本代表の合言葉は「エベレストに登る」。世界最高峰に例え、優勝を目指した旅だった。自身は第1戦チリ戦直前に左ふくらはぎを痛め、急きょ欠場。そこから戦列に戻り、代名詞ジャッカルで窮地を救った。

3日後、日本に戻って帰国会見に出席した。主将の重圧から解き放たれ、心を落ち着かせて言い切った。

「まずは自分の夢でもある『リーグワン優勝』をかなえたいです」

日本代表に込めてきた愛情と情熱を、今度は入団7年目の地元チームに注ぐ。

16年前の春、名古屋・御田中に入学した少年は「プロに入りたい」と夢を記した。小学生のころから地元で野球やサッカーを体験したが、経済的な理由で入部を諦めた。力を持て余した12歳は中学でラグビーに出合い、全力でぶつかり、自由に走る楽しさを知った。

「本当に生活レベルが低く、帰りたくない。帰りたいと思う家じゃなかった」

門限はなかった。支えは仲間であり、地域の大人たちだった。練習を終えると駄菓子屋に午後9時まで入り浸った。けん玉、ベーゴマの技を見せ「成功したら(店の)おばちゃんが10円券をくれた」と懐かしむ。

名古屋市の自宅近くにあった「ヤマザキサンロイヤル溝口」が居場所だった。店を「ヤマちゃん」、いつも出迎えてくれる篠村智子さんを「ちゃんおば」と呼んだ。友人8人で80円を稼ぎ、全て当たり付きのお菓子に注いだ。篠村さんは「試合に負けてもくよくよすることなく『次頑張ればえぇ』と切り替えが早い子でした。優しくて、いつも笑っていた」と思い返した。

毎日通ったが、夜が深まると友人も帰路に就く。そこから1人で公園へ行き、月を眺めた。日課だった。

「今でも見ます。月や夕日を見ると心が落ち着く」

夢中になれるのがラグビーだった。地元の強豪トヨタに憧れ、安定した生活と親孝行を志した。春日丘高(現中部大春日丘)卒業後の入団も考えたが、周囲の勧めで全国大学選手権9連覇を達成する帝京大に進んだ。部員約150人の環境でもまれ、当時の岩出雅之監督(65)の指導で人として尊敬される行動を学んだ。

念願かなってトヨタに入団すると、1年目から異例の主将に抜てきされた。悩み続けた。07年に南アフリカをW杯優勝に導き、当時のトヨタを指揮したジェイク・ホワイト監督(59)からは何度も繰り返された。

「自分の信じるものを、信じなさい」

頭を悩ませると、子どもの頃のように月を見て心を整えた。模索し、また日常に目を向ける。そうして築き上げたスタイルがある。

「僕のリーダーシップは、情熱と、愛情です」

ピッチに立てば力強い前進、ボール争奪戦でのジャッカルで存在感を放ち、ぶれない背中と言葉で仲間を導く。それは日本代表でも、トヨタでも変わらない。

「僕はハングリー精神で、ここまで来ている。まだまだ負けたくない」

4年後の代表へ、主将の期待感は変わっていない。

「もっと日本代表を強くしたい思いが強い。ポテンシャルがあり、ベスト4、優勝という目標を掲げられるチームだと思います。まだまだ日本ラグビーは強くなれると確信できました」

地元の愛知から、夢を追う日々は続く。【松本航】