たくさんの教え子たちが勇姿を見届けたことだろう。報徳学園の永田裕治監督(53)は今春のセンバツを機に勇退することが決まっていた。当初「能力がめっちゃ低かったチーム」と永田監督が思っていたのがうそのように、チームは試合ごとに成長を重ね、ベスト4までたどり着いた。準決勝で履正社に敗れはしたが、最後の最後まで「逆転の報徳」を感じさせる戦いを見せた。永田監督と少しでも長く野球を-。この思いは今年のナインだけのものではなかった。

 永田監督は甲子園初出場となった95年、阪神・淡路大震災の年のセンバツを「原点」と語る。当時のキャプテン西嶋章行さん(39)は、仕事の合間にテレビで準決勝を見守っていた。「(永田監督は)いつも通りに見えました。なんとか勝ってほしいという思いでした」。95年は震災の直後で、練習もままならなかった。センバツが始まると渋滞を避けるために、宿舎から甲子園へは自転車で通った。そんな困難な状況の中、報徳学園は1勝を挙げた。8回2死満塁からひっくり返す、伝統の「逆転の報徳」を見せつけた試合だった。

 西嶋さんを始め95年時のメンバー12人が今年3月上旬、グラウンドへ激励に訪れた。西嶋さんは「監督を初めて甲子園に連れて行った代です。1勝でも多く野球をやらせてあげてほしい」とナインにお願いした。その日の夜は、当時のメンバーが営む店で永田監督を囲んだ。思い出話に花が咲き、気付けば時計の針は午後10時を回っていた。「当たり前かもしれないけど、補欠まで名前を覚えているんです。1人1人、いじりができるぐらい」。ピザを食べながら「なんであの時交代させたんですか」など当時聞きたくても聞けなかったことをたくさん聞いた。永田監督はその時々をしっかり覚えていて、丁寧に答えてくれたという。

 「若い監督ということもあって、永田監督が『全員野球』のキャプテンという感じでした」と西嶋さんは当時のキャプテンとして振り返った。西嶋さんは永田監督に直談判に行ったことがある。レギュラーは「痛い」と言えば病院を紹介してもらえる。しかし、3番手、4番手の選手はなかなか言い出せない。その状況を知り監督室へ直談判。すると永田監督はすぐに動いて同じようにしてくれた。

 「永田先生が一流の選手だったら、こんなに長くやっていけていないと思う。補欠だったし、下の気持ちが分かってくれた人」

 当時、大学に進学先のつてはなく、永田監督は休みの日に大学回りをしていた。日曜日の晩に夜行バスで東京に行き、月曜日に1日大学を回って、また夜行バスで帰ることもあった。家族にお金を借りてでも行ったこともあった。自分の休みを削っても、選手全員のために動いていた。

 「9回頑張ったら逆転できるんじゃないかと思いました。『逆転の報徳』として最後まで素晴らしい試合を見せてくれました」と西嶋さんは永田監督の勇退を見届けた。

 報徳学園には確かに伝統が受け継がれていた。【磯綾乃】