あっ、白球が跳ねた-。1995年(平7)夏。北北海道代表の旭川実は松山商(愛媛)、鹿児島商(鹿児島)、その年の春のセンバツ大会準優勝の銚子商(千葉)といった強敵を次々と破り8強に進出、「ミラクル旭実」旋風を巻き起こした。2回戦の鹿児島商戦は、2点を追う9回表2死無走者から、ソロ本塁打、イレギュラーバウンドの二塁打などで逆転。今も旭川実の代名詞として生き続ける“ミラクル”が誕生した。

 「内心は『ひょっとして終わりかな』と思っていましたよ」。9回表2死無走者。スコアは11-13。込山久夫監督(68)の脳裏には、鹿児島商の校歌を聞く、ナインの姿が浮かんでいた。

 選手も同様だった。主将の岸部一孝(38)は「最終回は『これが最後』と、全員が勝ち負けと関係ないところでプレーした」と苦笑いする。打席に向かう4番岡田隆紀に、ベンチから「狙ってこい!」と声が飛ぶ。その主砲は「狙う」と宣言した通り2球目を左翼席に運び、5番角井修に声をかけた。「お前も狙ってこい」。

 角井は3球目を強振。打球は三塁前に転がった。再び全員が試合終了を意識した時に“まさか”は起こった。込山が述懐する。「角井のスイングは、ホームラン狙いの力みがあった。普通と違う回転のボールが、グラウンドのくぼみに入ったんでしょう」。三塁手が大事に捕ろうと待ったボールは、差し出したグラブの直前で斜めに弾み、三塁線を抜けた。

 それでも、2死二塁。7番山崎正貴は「やっぱり主将のお前で終わりだ」と、笑顔で6番岸部を打席に送った。その岸部は、四球を選ぶと、山崎貴に「やっぱりお前が最後だ」と笑って一塁に歩いた。直後、込山監督はセオリーを無視。ゲームセット覚悟で重盗のサインを出す。二、三塁となり、山崎貴の左翼への2点適時打で逆転。監督も、選手も、最後まで野球を楽しみ尽くした結果が、ミラクルだった。

 選手たちは甲子園練習の際、旭川から持参した練習場の土をポケットにしのばせ、定位置の周囲にまいていた。31年前に涙した、指揮官の提案だった。64年夏、込山少年は旭川南の捕手だった。あこがれの甲子園に出場したが、1回戦で宮崎商(宮崎)に0-2で敗れた。「緊張で、試合内容を全くおぼえていない。自分の選手には、そんなみじめな思いをさせたくなかった。だから1番汗水流し、涙を流した場所の土をまいて、平常心でプレーさせたかった」。

 3回戦も銚子商(千葉)に、0-1から逆転勝ち。準々決勝の敦賀気比(福井)戦でも、敗れはしたが0-3の9回に2点返した。甲子園で、選手は自分のグラウンドのように走りきった。「人生で最高の瞬間。大満足に、おつりが来るくらいの大会だった」。“ミラクル”から16年後の11年夏、込山に日本高野連から「育成功労賞」が贈られた。(敬称略)【中島洋尚】

 ◆VTR 旭川実は2度の5点ビハインドから7回までに1点差に詰めより、8回表に同点。その裏すぐに2点を勝ち越され、万事休すと思われた9回2死無走者から、4番岡田が1点差に迫るソロ本塁打。5番角井がラッキーな二塁打で続き、最後は二、三塁から、山崎貴が走者一掃となる逆転の2点三塁打を左越えに放った。2時間53分、両チーム合わせて37安打28得点の激闘だった。

 ◆「ミラクル」「逆転」そして「旋風」 95年夏、1回戦から3戦連続逆転勝ちで、北北海道勢として初めて8強入りした「ミラクル旭実」の他にも、甲子園での戦いぶりをたたえ、異名を取ったチームは多い。

 夏に限れば61年「逆転の報徳」、78年「逆転のPL」、そして、20世紀に劇的ホームランで数々の奇跡を演出した「ミラクル宇部商」が代表的。85年夏4強の「ミラクル甲西」、86年春4強の「新湊旋風」、最近では07年夏に全国制覇した佐賀北の「がばい旋風」が有名だ。