人々の記憶にも記録にも残る、まれなボクサーが、王者のまま現役引退した。長谷川穂積さんが9日、神戸市内で会見し、リングから去ることを表明した。

 初めて長谷川さんを取材したのは、真正ジムに移る前の千里馬神戸ジム時代だから、10年ほど前になる。その日は、土曜日だった。ボクシング担当記者が取材に行けず、ゴルフ担当だった私に依頼がきたのだが、記者歴18年の中でも強烈な印象があり、今も鮮明に覚えている。現在の真正ジム会長で、当時長谷川さんの専属だった山下正人トレーナーが、競馬で会心の“ホームラン”を放ち、帯封の万札が入った封筒を手に、さっそうとジムにやってきたのだ。もちろん、直後のミット打ちで、山下トレーナーのミットめがけて高速連打を繰り出していた長谷川さんの姿も目に焼きついているが、初対面のインパクトは山下トレーナーの馬券の方が大きかった。

 その後、WBC世界バンタム級王座を10度防衛し、WBC世界フェザー級王座も獲得したが、11年4月に同王座から陥落。私がボクシング担当になった12年秋ごろは、ちょうどノンタイトル戦が続いていた長谷川さんにとっては苦しい時期だった。14年4月に3年ぶりとなるIBF世界スーパーバンタム級戦が決まるが、その試合前に「勝っても負けても引退」の可能性が浮上し、普段は多い長谷川さんの口数も少なくなった。試合は無残なTKO負けで、誰もが引退を疑わなかった。本人も、直後はやりきった表情だった。

 しかし、決断できずに日は過ぎていく。14年秋ごろには、スパーリングも開始。練習で日本ランカーを圧倒するうちに、なえかけていた闘争本能はよみがえっていく。さらに、プロゴルファーの松山英樹らも通っていたハードトレーニングのジム関係者との出会いもあり、完全に気力が復活。「もっと強くなれる」「自分の強さを知りたい」と自らを鼓舞し、試合直前の左親指脱臼骨折というアクシデントにも負けず、ついに今年9月、3階級目のベルト、WBC世界スーパーバンタム級王座をつかんだ。

 2年ほど前、長谷川さんが経営に携わる神戸市内のタイ料理店で、ボクシング担当記者との囲む会が行われた。大きなジョッキを手に、自ら“配合”した酒を笑顔で各記者に注ぐ長谷川さんの姿を見て、リング上の鬼気迫る姿とのギャップに驚いたことがあった。気配りもできて、話も面白いだけに、多くの人に愛される。リングから去った今後の人生で、どんなチャンピオンになるのか。本当に楽しみだ。【木村有三】