力道山の墓は、東京・池上の池上本門寺にある。寺を訪ねると、墓は誰にでも分かるように案内の掲示板で示されている。4月24日、WWEのレガシー部門殿堂入りの記念トロフィー贈呈が、墓前で行われた。大きい墓石の前には、力道山の銅像が建っていた。

 次男でプロレスラーの百田光雄(68)は「亡くなって54年たっても、父の名前が残っていることがありがたい。私の孫の代まで伝えていってくれれば」と、感無量の表情で喜んでいた。力道山が亡くなったのは、1963年(昭38)12月15日。暴力団員にナイフで刺されたことが原因だった。

 百田が話したように、亡くなって54年。今年58歳の記者も生で見た記憶がないぐらいだから、力道山をよく知っている世代は60歳以上の人ではなかろうか。日本プロレスの父といわれ、戦後日本の最初のヒーローの記憶も、現在では徐々に薄れている。そんな中で、米国プロレス団体の殿堂入り表彰は、あらためて力道山という日本プロレス界の大功労者の存在を思い出させてくれた。

 力道山がいなかったら、ジャイアント馬場も、アントニオ猪木も生まれなかった。その後の、日本プロレス界を支えてきたヒーローたちも出てこなかっただろう。力道山は、日本にプロレスという大衆娯楽を根付かせ、その土台をつくった。土台があるからこそ、現在、新日本プロレスで大活躍するIWGPヘビー級王者オカダ・カズチカのようなスーパースターが生まれたのだ。

 記者が子どものころは、親戚のおばちゃんが、夜8時を過ぎるとテレビの前に正座して、プロレスを見ていた。外国人レスラーの反則攻撃に悔しがり、ジャイアント馬場が勝つと、両手をたたいて喜んでいた。小学校時代には、プロレスごっこで友だちにコブラツイストや卍固めをかけて遊んでいた。長崎県の五島列島で行われた興行で、初めて生のプロレスを見たことは今も大きな思い出だ。それも、力道山がいたからこそと、今回の取材で思い知った。

 百田の勧めで、力道山の墓に線香を上げ、お参りもさせてもらった。力道山がつくりあげたプロレスは、今でも日本中を熱くさせ、人々に生きる勇気を与えてもいる。「プロレスは今でも盛り上がっていますよ」。せんえつながら、記者からも天国の力道山に報告させてもらった。【プロレス担当=桝田朗】