2016年限りで現役生活にピリオドを打った名選手が、現役生活を振り返る特別企画「人生第2章~アスリートの引退」。

 サッカー元日本代表DF市川大祐(36)の第2回は、10年に清水を退団し、JFLの八戸で引退するまで、J1から地域リーグまでの全カテゴリーで戦った日々の中、何を思い、サッカーと向き合っていたか…当時の思いを明かした。【取材・構成=村上幸将】

◆32歳で軟骨を右ひざに移植

 市川は22歳だった03年2月に痛めた右ひざに不安を抱えつつ、長谷川健太監督が就任した05年に進退をかけて挑んだ。FW岡崎慎司(現レスター)ら次世代を担う選手が加入した同年、清水は15位に沈んだが、以後は中位を保ち世代交代が進んだ。10年10月18日、30歳の市川は中学から在籍した清水から契約満了通告を受け、11年に甲府へ移籍した。

 「清水にはいろいろなものがそろい、サッカーをするのに何も不自由がない場所だと理解も感謝もしていました。(山梨は静岡の)隣で、車で移動すれば2時間かからないくらいで行けましたが、最初に行った時、甲府には決まったグランドもクラブハウスも、トレーナールームも筋トレルームもないとか、いろいろな違いがあった。清水は特別な場所だと感じました」

 甲府は11年にJ2に降格。市川はJ2水戸から2年契約でオファーを受けたが、あえてトライアウトを受けた上で、自ら単年契約を望み12年に加入した。

 「選手として1年、1年が勝負。ひざのこともあったので、2年契約はフェアじゃない、1年契約して、しっかり判断してもらいたかった。水戸の最後の方は、ひざに違和感が出ていたし、プレーすると水がたまる状態になっていた」

 水戸との契約が1年で満了となった市川は、清水時代の先輩で当時、JFLの藤枝でプレイングマネジャーをしていた、斉藤俊秀氏に今後の相談をした。

 「プレーをするなら、手術をしないとできないと思っていた。その状態で取ってくれるチームは現実問題、難しいと思って、俊さんに相談に乗っていただく中で『うちでやらないか?』と声をかけていただいた。『プレーするには手術をしないと、今の状態じゃできないです』とお伝えしたんですけど、いいと言ってくれた。本当に大きかった」

 13年2月、良い部分の軟骨を右ひざに移植するという、トップアスリートでは行った例がない手術を、32歳で受けた。

 「半月板というクッションがなく、軟骨同士が接触していました。骨までドリルで穴を空けて、血を出して疑似軟骨を入れてやっていましたが、弱かったので自分の良い部分の軟骨と悪い部分を入れ替えました」

◆3日連続の“地決”は世界一過酷

 復帰に半年かかり、夏に合流した市川に、最高の復帰の舞台が待っていた。9月7日の天皇杯2回戦で古巣の清水と対戦。市川は後半36分から途中出場し、日本平のピッチに立った。

 「あのタイミングで藤枝が清水とやるのは、なかなかないじゃないですか。手術して初めての公式戦で、俊さんが使ってくれて、日本平のピッチに戻ってきた。サッカーが出来る喜び、感謝の気持ちは強くなってきましたよね」

 清水戦ではピッチに立った早々、右クロスを上げて決定機を作り出した。試合は0-2で敗れたが、狙った渾身(こんしん)のクロスに手応えがあった。

 「ただ単に蹴っても(味方に)合わない。イメージを頭の中で描いて蹴るボールは、圧倒的に合う確率が高い。画が描ける時はボールが生きる、何となく上げたボールは生きていないし、そうしたボールが点になってアシストと評価されても、結果が出ただけで何もうれしくないし、残らないし、学べないし、感じられない。本当に自分の思い描いたボールで、得点にならなかった時の方が、よっぽど残るものがある」

 藤枝に2季所属したが、故障が続き14年で退団。自主練習を続けていた15年7月に、W杯フランス大会の日本代表監督・岡田武史氏がオーナーを務めるFC今治からオファーがきた。J1から数えれば5部にあたる四国リーグも、出場は1試合にとどまった。JFL昇格をかけた、11月の地域リーグ決勝大会(地決)では、2試合にフル出場も敗退。契約満了の時点で35歳だったが、自信を取り戻していた。

 「3日連続の試合は、どのリーグを見てもない。地決は世界一、過酷(苦笑い)。でも、そこにもサッカーの楽しみがあった。上がれなければ、今治で来年(の契約)はないと思っていたんですけど、2試合目と3試合目にフル出場した。90分やれるということは、すごく自信になった」

 オフにJFLの八戸からオファーが届き入団を即決。16年1月に加入した。

 「必要とされて行くことは率直に、すごくうれしかった。八戸は15年にJFLの第1ステージを優勝し、スタジアムなどの基準、整備が整っていればライセンスが交付され、16年はJ3でプレーしていたチーム。サポーターは熱心に応援してくれるし、地元の人は温かい。大きく伸びていく可能性を感じました」

 普及活動で地元の小中学校に足を運んだ。その中で、開幕から23年でJ3まで拡大し、全国37都道府県に52のクラブができた今もJリーグの認知度が足りないと痛感させられた。

 「夢や目標を、どうしたら持てるか、かなえていくかを話す活動をしました。まず『ヴァンラーレ八戸、知ってる人?』って聞くと、小学生でサッカーをやっている子以外は知らない。『Jリーグ、知ってる?』って聞いてもいないんですよ。まずは知ってもらうことが大事だと思いました」

 歴史が浅い地方クラブの未来について持論がある。

 「特別、どこかをモデルにしなくてもいいと思う。独自の文化、伝統を、うまくサッカーに取り入れて、自分たちに合ったものを作っていけばいいんじゃないですか。例えばJ2の山口や松本は、サポーターが本当に熱心で(他とは)ちょっと違ったところがある。八戸は今年、ダイハツスタジアムができましたが、順位が満たずJ3昇格を勝ち取れなかった。来年は今年の経験をしっかり生かし、必ずJ3をつかんでほしいと強く感じますし、昇格する時には、その場に行ってお祝いしたいと思います」

 時は流れ、環境が変わっても現状を見詰め、ベストを尽くし、サッカーへの情熱を貫き続けた。(続く)

 ◆市川大祐(いちかわ・だいすけ)1980年(昭55)5月14日、静岡県清水市(現静岡市清水区)生まれ。高部小(現清水高部小)1年でサッカーを始め、93年に清水ジュニアユースに加入。96年にユースに昇格し、清水工業高(現静岡県立科学技術高)2年の97年12月14日の天皇杯2回戦・福島FC戦で後半40分に出場(3-0勝利)。98年3月21日のJリーグ開幕戦・札幌戦で先発。同11月14日の市原(現千葉)戦でJリーグ初ゴール。11年に甲府、12年にJ2水戸、13年にJFLの藤枝(翌14年はJ3)、15年に四国リーグのFC今治、16年にJFLの八戸に移籍し、16年11月13日の栃木ウーヴァ戦にフル出場し引退。J1で347試合出場12得点、J2で32試合出場1得点、J3は6試合出場、JFLは28試合出場2得点、天皇杯38試合出場3得点。国際Aマッチ10試合出場。181センチ、74キロ。家族は妻と2女。