23年ぶりに尾張に居を構えるとは思ってもみなかった。それも2度目の中日ドラゴンズの担当記者として。街の風景もだが、本拠地も練習場も変わっていた。ナゴヤドームは存在していなかった。昇竜館も屋内練習場も名古屋市西区にあった。通い詰めたナゴヤ球場は、同じ場所にはあったが、かつてメジャーのキャンプ地で見たような近代的で広い「スタジアム」に姿を変えていた。

 94年のシーズンを最後に95年から営業職の事業部(現広告事業部)に籍を移した。メインの業務はイベントの準備、運営など。赴任早々に先輩に言われた言葉があった。「事業の仕事は、選手や参加者が活躍できる舞台を作ってあげること。いままでキミが取材していた野球選手みたいな人たちが、輝くための場を作るのが仕事だよ」。日刊スポーツが立ち上げたスポーツイベントや釣りのイベントで、アマチュアゴルファーや少年サッカー選手、釣り人たちと接した。参加者が喜んだり、感動したりする場面に多く接した。自分が参加者として出場したイベントや、テレビで見る五輪やコンサートも、あの裏側はどうやっているのかという目線で見ることが多くなっていた。

 そんな世界で22年を過ごしてきた。日刊スポーツに在籍したほぼ8割に当たる。きっちり整備され、ファンの視線が注がれる舞台で活躍する選手や首脳陣を追いかける仕事に戻ってきた。かつては、表舞台しか見ていなかったと思う。今度は舞台裏も感じながら、現場に足を踏み入れよう。【中日担当=伊東大介】