<オリックス3-2西武>◇1994年(平6)8月21日◇グリーンスタジアム神戸

平成も残り少なくなった19年3月21日、マリナーズの一員として東京ドームで現役を引退した“天才ヒットマン”イチロー。日米、多くの監督の下でプレーしたが恩師について聞かれると必ず「仰木さんですね」と口にする。

94年4月、仰木監督(左)の発案でユニホームの名前を鈴木からICHIROに変えた
94年4月、仰木監督(左)の発案でユニホームの名前を鈴木からICHIROに変えた

仰木彬。近鉄、オリックス、そして両者の合併球団オリックスで指揮を執り「パ・リーグの広報部長」とも呼ばれた。相手をかく乱する采配から取った「マジシャン」の異名がぴったりくる人物だった。

プロ入り2年間、2軍暮らしが多かった自分を監督に就任すると同時に1軍の主力選手にしてくれた。その恩義に感じ、イチローは起用に応えた。

仰木オリックス1年目の94年にいきなり210安打、当時の安打数新記録をマーク。安打数そのものが注目されていなかった時代を変え、今なお続く「イチロー伝説」を生み出した。

当然、仰木とイチローの関係は深まった。それを象徴する試合が94年8月21日のオリックス-西武戦だったと思っている。

94年9月のイチロー
94年9月のイチロー

この2日前。同19日に仰木の母がこの世を去った。しかしチームの置かれた状況は首位西武を1・5ゲーム差でオリックスが追う正念場の地元3連戦。「昭和の男」を地でいく仰木は周囲に事実を明かさず、試合に臨んだ。

だが初戦は負け、20日も敗戦。痛い連敗となった。3連敗はできない21日朝、球団が発表する形で訃報が明らかになった。

「全然、知らなかった。新聞で読んで初めて…」。神妙な顔でイチローは言った。そして大事な3戦目にその打棒が爆発する。3回に先制8号2ラン。5回には9号ソロ。バックスクリーンの左右に打ち込んだ。イチローにとってこれがプロ入り初の連続本塁打ともなっている。

勝利を収めた後、我々、記者に対し、イチローは言った。

「監督のために、という気持ちはありました」

母を失った悲しみを隠し、戦う指揮官から男のダンディズムを感じ、それに応えた、これも男の美学でもあった。

これでオリックスは首位西武に2・5ゲーム差の2位に踏みとどまった。最終的には敗れるのだがプレーオフのなかった時代にペナントレースの興味を9月まで引っ張る結果になった。何よりも2人の結びつきを深めた感慨深い試合だった。(球場名など当時、敬称略)

【編集委員・高原寿夫】